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結婚3年目の年末年始について、実家の記憶

嫁いでから、年末年始は取り寄せのご馳走ラッシュになった。おせちは和食の名店、山口県のふぐ、北海道のズワイガニ、デパ地下のケーキ。「みんなで何にもしないでダラダラするのよ」という義母の心尽くしと肥えた舌と財力のなせる年末年始!最高!!となったのは1年目。
2年目、3が日が明けてから、「あれ、なんか足りない」と感じた。
実家とのギャップが大きいのだ。
一言でいうと、慌ただしさと雑さが足りない。

実家では30日に父が一般公開された卸市場に向かい、食材の買い出しをする。じゃんけんに負けた娘のどちらかが同伴させられる。父は買い物メモを市場の雑踏の中で落とす。毎年数の子が過多。なぜかマグロの柵をめちゃくちゃに買うこともある(写真がそのマグロ。もう盛るのに適した皿すら鑑みる余裕がないほど多い)。意味のわからない安さのうどんやら、バケツ一杯の漬物、謎の調味料やら買い込んで帰宅。母は父の買い物にため息をつきながら家でおせちの仕込みをする。うちのおせちはバランスが悪い。なぜならそれぞれの好みに左右されるのと、祖母が横で鍋一杯の黒豆を炊くからだ。下段は半分黒豆、残りは伊達巻きに当てられる。
そう、伊達巻きは私の大好物で、3が日の間に2本は消費してしまうのでちまちま数切れを盛っている場合ではないのだ。そして人気のない品、手間がかかりすぎる品は年を追うごとに徐々にリストラされていく。
残りの惣菜をテキパキと作る横で私と妹は部屋の掃除やら、外の草むしりやら。
31日は、年越しそばの前に寿司がくる。
紅白を見ながら私が家族ぶんの年賀状を印刷し(遅い)、父が筆でさらさらと加筆しながら居間の床に並べる。母は1番最後に、ほんの少しだけ自分用の年賀状を書く。
1日はおせちと鯛と、青のりがたっぷり入ったお雑煮と、その他父が買い込んだ食材がずらり。お笑いと番組をダラダラ見ながらひたすら食べる。
親戚が挨拶に来る。そういえば寝巻きのまま玄関に出てしまった。
父は残りの年賀状を書く(遅い)。
2日は初売りにいく。妹はマイペースに福袋を買い込み、私は父に「これいらんか」と余計な福袋を買わされる。父のエゴと私の頑固さがぶつかってお互いムスッとしながらイオンをヌンヌン歩く。誰かが不機嫌になりながら、へとへで帰宅。

慌ただしい。ここにはいい事を中心に書いたけど、それでも各々のto doリストと休みと食への欲望がぐちゃぐちゃなってムラっけもすごい。でも、それぞれにやる事があてがわれていた気もする。
私はこの年末年始のソワソワした感じが結構気に入っていたのだ。

大きな病気と更年期障害に苦しんだ母はおせちをあまり手作りしなくなった。黒豆を煮ていた祖母は色々あって別居になった。私は東京に嫁いだ。父は…相変わらず毎年市場に行くけれど。
コロナがやんで、実家に帰ったとしても、年末年始は私の記憶とまあまあブレているはず。
それがなんだか寂しくて、でも嫁ぎ先の既製品だらけでソツのない年末年始にまだいまいち慣れずムズムズしていて、なんだか拠り所がない状態になっている。

そういうどっちの家族にも足がつかない過渡期の気持ちを書き留めたかった。

こういうの、他の方も感じたりするのかしら。

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