どうしてそんなに怒るのか

いつものK氏とのカフェ雑談より。

ほのぼのとした温泉宿のポスターに、制服を着て露出多めの女の子のイラストが描かれていて、そのキャラクター設定がどうも性の商品化、ないし女性侮蔑と受け取られる内容となっていることに対して不快に感じた人が、SNSで「抗議」をしたことを発端に、左右、様々なカルチャー軸ないし世界線が錯綜する「議論(というなの炎上)」が始まる。

その手の話は日常茶飯事につき、いちいちその案件に対して、あーだこーだを感じることをしないかわりに、どうしてみんな、そんなに怒るのかな。と素朴に思う。

ある表現をみて、それを不快に感じることはその人の主観であって、それが正しい、間違っているという議論で言えば、たぶん正しいということで。

では、不快だ、という意思表明をするだけなら、そんなに炎上することもないはずなのに、「不快」という気持ちだけでなく、(差別的な)社会をしょって、抗議(クレーム)を表明するところに、この手の話の複雑さがある。

個人的な不快感であるはずの感情が、いつしか、社会に対する正義感に「昇華」する、いや、当人は昇華というより直結しているのかもしれないけど。

この手の「現象」に対して、「キャンセルカルチャー」なる風潮があるらしく、これを読んでなるほどな、と思う。

もちろん、個人的な不快や嫌悪感を自分の中だけに閉じ込めておくことが健全とは思わないけれど、自分が体験したことに直接関係していない人を巻きこんで騒動にすることが健全だとも得ない。

公序良俗、表現の自由、ジェンダー差別、性の商品化…などなど、論点が様々に錯綜する中で、ことの発端である不快感はそこまで大きな話だったのかわ分からないけれど、ここまで拡げる当事者たちのエネルギー=それはつまり「怒り」の総量に圧倒されてしまうのである。

みんな、どうしてそんなに怒るのか。

先日NEWS ZEROを観ていたら、同種の問題について落合陽一氏が、

「そんなに怒らなくても、やさしくメールすれば良いんじゃないですかね」とぼそっと言っていて、共感した。

世界は、変わらなければいけないことが沢山ある。変えなきゃ行けないことに対して怒りの声を上げることも時には必要である。ただ、本当に、この方法なのか、という疑問に私は答えを持っていない。

最近、怒ってないな。とぼんやり動物の癒し動画を見ている日々。




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