名古屋へ

ライヴのために、名古屋へ向かっている。近鉄急行に乗ったが、案の定、自分は乗り換えを間違えて、到着が大幅に遅れている。

名古屋で思い出すのは、あれは5年くらい前だったか、名古屋のライヴハウスで開催された音楽のイベントがあり、友達に誘われて我々も出演したときのこと。うるさいパンクバンドががちゃがちゃ演奏した後に出てきて、どーもー、とか言って漫才をするのは気恥ずかしかったが、お客もいい感じに盛り上がって、笑ってくれた。

しかし最前列にいたキャップ帽の男、見た目は30代後半くらいのおっさん、が、漫才中にも関わらず、矢鱈と話し掛けてくるのである。普段の舞台でも、たまにそういうお客に出食わす。自分としては黙って見て欲しいが、喋りたいお客もいるのだろう、そういうときは、舞台と客席である程度の会話をして、後はちょっと黙っててください、と言えば、大概は黙ってくれる。しかし、このときのキャップ帽の男は、なかなかにしつこい輩だった。

いいよー、それでそれで?もう一回言ってよー、どういうことそれー?みたいな感じで、酔っ払っているのだろう、最初の内はこちらも、どんだけ喋んねん、とか、ちょっと黙ってくれますか、なんて言ってあしらっていたのだが、野次は止まらない。周りのお客も迷惑そうである。無視して漫才を続けたが、そのうち男は、ツッコミの言葉を輪唱し出して、また、自分のボケに対して、今のボケはちょっと面白くないよー、などといった野次まで飛ばしてきた。漫才をしている最中である。お客の誰かが、ちょっと黙れよ!と叫んだ。キャップ帽の男はニヤリと笑い、我々に向かって、芸人だったらこういうのも笑いにしてみろよぉ、と言った。ステージは客席よりも高めで、男の顔面はちょうど自分の足元辺りにあった。革靴で顔面を蹴り飛ばしたら笑いになるかな、と思った瞬間、隣に立つ相方が真顔で一言、お前あとで絶対しばくから待っとけ、と言った。自分は思わず、こわ、と言った。

何だかんだで15分ほどの出番が終わり、楽屋に戻って、音楽のお客はタチが悪いなぁ、なんて言っていたら、着替えを早々に済ませた相方が、よし、あいつしばいてくる、と言って楽屋を出て行った。

自分はライヴハウスの外、壁沿いに座って友達と談笑していた。ライヴハウスの喧騒とは打って変わって、静かな夜だった。するとライヴハウスの入り口から、相方がキャップ帽の男の首を掴みながら出て来た。こっち来い!こらぁ!と叫ぶ相方は、完全に街の迷惑だった。キャップ帽も、暴力は違うだろぉ、殴んのかコラァ、と怒っている。これではただの喧嘩である。自分は、放っておこう、と思って煙草に火を付けた。相方は自分の姿に気付いて、おれの相方にも迷惑かけたんじゃお前はぁ、謝れぇ、とか叫んでいる。やめてくれ、巻き込むな。二人が揉み合いながら自分に近付いてくる。相方が怒りに震えながら、こいつ全然謝れへんねん、どうしたらええねん、と言う。自分は吸いかけの煙草を消して立ち上がり、脳内のスイッチを入れた。そしてキャップ帽に、ちょっとこっち来てくれますか?と言った。

その頃の自分は、今思うと人間的にどこか終わっていたというか、他人に対してまったく何の温情も沸かないような人間だった。キャップ帽に対して、怒りの感情はそこまで無かった。しかし反省の色を全く見せないキャップ帽を、何とか嫌な気持ちにさせたいと、心から思った。とはいえ、喧嘩の弱い自分が殴っても、大して効かないどころか下手をすれば殴り返される可能性すらある。いかに手を汚さずにキャップ帽の心をへし折ることが出来るか、自分は考えを巡らせた。

「ええと、一旦落ち着いてください。酔っ払ってるようやけど、話は聞けますよね。漫才もあれだけ聞いてたし。今から喋りますけど、とりあえずちゃんと聞いてくださいね。簡潔に話します。我々は真剣に漫才してますから、ああやって野次を飛ばされると、やり辛いんです。あなたは我々に迷惑をかけました。それに他のお客さんも嫌そうにしてたでしょう。他の人たちにも迷惑をかけました。まず、そういう意識、周りに迷惑をかけたという意識は自分でありますか?」
「あぁ?おれはただ好きなように楽しんでただけじゃ!コラァ」
「まずその喋り方を止めてください。そういう場じゃないんで。冷静になってください。あなたも大人やから分かるでしょう」
「…客がよぉ、好きなように楽しんだら駄目なんかよぉ?」
「良いですよ。でもあなたが楽しいせいで周りが楽しくない、となるのはどうでしょう?それは問題ですよね。皆同じように入場料を払っているわけですから、同じように楽しむ権利があるのに、周りが嫌な気持ちになって、あなただけ楽しむのはズルいんじゃないですか。それにね、現にあなた今凄い面倒臭い状況になってますよ。これ全然楽しくないでしょう。この状況を作ったのはあなたですよ。楽しいですか?今。あと、周りに迷惑をかけている意識があったか、答えてください」
「迷惑ぅ?…なんで迷惑」
「どう考えても迷惑でしょう。すごい鬱陶しかったもん。顔蹴ったろうか思ったんですけど、そしたら多分みんなも喜んだんちゃうかな、顔蹴った方が良かったですか?でも嫌でしょ。そんなんされたら」
「暴力はだめだろぉ」
「そうですね。でもね、あなたのやったことはほぼ暴力なんですよ。さすがに反省した方がいいですよ」
「暴力なんてしてねぇよ。迷惑だったかもしれねえけど、暴力じゃねえだろ」
「そうですね。じゃあ暴力では無いです。でも今あなた自分で迷惑だったって言いましたね。ということはそういう意識があったと認めたことになります。悪いことしたのなら謝るべきじゃないですか」
「あぁ?」
「あぁ?やなくて。話伝わってますか。良い年の大人なんやから。それか頭悪い人ですか?マトモな大人なら、一言謝って、穏便に済ませた方が良いんとちゃいますか」
「謝るって、誰に…」
「いや俺にや。分かるやろ。迷惑かけてごめんなさい、って一言で良いですわ。それでこっちも謝ります。あなたも今気分害してるみたいやし。それでもう、この話は終わりにしましょう。お互いに謝って、終わり」
「でも…」
「でも、なんですか?こっちはだいぶ譲歩してるんやで。ほんまやったらボコボコに殴っても良いところを、気持ちを抑えて、穏便に済ませようとしてるんやから。こっちも謝る言うてるし、これ以上何があんねん。なぁ、はよしてくれな、そろそろキレますよ。それだけは避けたいところですよ」
「ああ、じゃあ、ごめん」
「じゃあ、って何?それは謝ったとは言わないです。目見て、迷惑かけてごめんなさい、って言うてください。もう一回どうぞ」
「えぇ…?」
「え、何で嫌そうなんですか。ほなさっきのごめんは何ですか。やっぱり謝る気無いんじゃないですか。嘘やろ?謝る気も無いのにごめんて言うたんですか。ただの嘘つきじゃないですか。嘘は駄目ですよ」
「だってよぉ…」
「だってやないわ。子供か。何で一言謝ることが出来ひんの?大丈夫やって。普通に謝ればいいだけやん」
「分かったよ…」
「分かったんなら、早くしましょう。はい、どうぞ」
「…迷惑かけて、悪かったよ」
「悪かったよじゃなくて、ごめんなさい、って言いましょか」
「もういいだろぉ」
「いや全然良くない。もうええから、はよ、言いましょうよ。小学生やないねんから、一から十まで全部言わせんといてください。もうこんなんしんどいじゃないですか。はよ終わらせましょう。はい、どうぞ」
「…ごめんなさい」
「はい。ありがとう。もう行っていいよ」
「ちっ」
「いや舌打ちしてるやん。自然に出てもうてるやん。あんたね、なかなかヤバい奴やから、自覚しといた方がええよ。ライヴとか見に行かん方がいい」
「おれもバンドやってっから…」
「ああ、絶対止めといた方がええ。マジで。舞台立たん方が良い。汚れるわ。周りが恥かくことなるから、もう辞め。居酒屋で酒飲んどき」
「そんなに悪いことしてねぇだろぉ」
「してるよ。自覚しいや。色々間違えてるし、頭悪いし、気持ち悪いよ。ほとんどの人間がそう言うと思う。笑われへん」
「芸人だったら笑いにしろよぉ…」
「それ何回も言うてたな。いや、笑いにするよ。後でお前のこと皆で馬鹿にして笑い者にするから。めちゃくちゃ笑うよ。ていうかもうどっか行ってください。謝ってくれたし、あんたの気持ちしっかり伝わったから」
「ていうか!あんた謝ってねえじゃねえか」
「おれが謝るわけ無いやろ、何も悪いことしてへんねんから」
「おめえふざけんな」
「もうええから、はよどっか行って。こっちは謝罪やない、感謝します。ありがとう。ライヴ来てくれてありがとう。ほんまにありがとう」

そう言って自分はキャップ帽に頭を下げたまま硬直した。もしも殴られたら相方に助けを求めて、代わりに殴ってもらおう。キャップ帽は舌打ちしながら、ライヴハウスの中に戻って行った。ほっとした。後ろを振り向くと、相方と友達が立っていた。なぜか自分のことを、奇怪な虫を見るかのような、分かりやすく嫌そうな表情で見ている。なぜだ。途端に恥ずかしくなった自分は、茶化すように警察の敬礼ポーズをして、一件落着です、と言った。街は静寂のまま、冷たい夜が更けていくのみだった。

何もいりません。舞台に来てください。