はたらく

昔から労働への嫌悪感が強かった自分は、つまらない労働をするくらいなら死んだ方がマシだ、などと言い張って、就職もせずに愚鱈としていた。しかし暮らすためには金が要るので、やむを得ずアルバイトをしてきた。思い返すと、こんな自分でも、それなりに労働してきたのである。

初めは家庭教師のアルバイトをした。小学六年生の女の子の家に行き、算数や国語を教えた。中学受験を控えた娘を持つ母親はナーバスだったが、女の子自体は楽観的でふにゃふにゃとした子だった。自分は勉強を教えつつも、時折無駄話を挟んで、女の子を笑わせた。ジャニーズで誰好き?おれは勿論、堂本剛、とか、うさぎって常に寂しくて死にそうらしいで、とか、大人になったらいい男と恋愛するべきやで、しょうもない奴となあなあで付き合っても絶対後悔するで、とかそんな話ばかりして、結局その子は受験に落ちた。合格したら焼肉を奢るから、という約束も水の泡となり、以来その子には会っていない。自分は最低な人間だと落ち込んだ。そして辞めた。

しばらくして、ラーメン屋でアルバイトをすることになった。年下のヤンキー先輩に、自分は常に敬語を使い、汗だくで皿を洗った。この店では、麺が茹で上がるときには厨房の店員全員で、よいしょお!と声を出すのがルールだった。自分はこれが苦手で、小声で、んしょ、と言う程度にとどめていた。それがバレて年下のヤンキー先輩に怒られた。腹から声出して、な?とドヤ顔で言われた次の日に、辞めた。

コンビニのアルバイトは退屈で、同僚も死骸のような人ばかりで、客もドブ鼠のような人ばかりだった。あるとき、客のおばはんにキレられた自分は、断固として謝らなかった。自分は何も間違っていなかったのだ。水ぶくれの顔面をした店長は、自分の代わりにおばはんに平謝りをした。そしてその後控室で、ああいうときはとりあえず謝らないと、と水ぶくれは言った。まあ、君が悪くないんは分かるけども、でもお客様には、まず謝る、これが大事なんよ。自分は、おれが悪くないと思うならまずおれを庇ってくださいよ、お客も大事ですけど店員も大事にしてくださいよ、と言ったが、店長は困ったような水ぶくれの顔面で眼鏡を拭きながら口を閉ざした。しばらくして、辞めた。

牛丼屋のアルバイトは、二日で辞めた。土方風の店長に髪が長いことを注意された自分は、切れません、と言った。髪の毛切らんなら辞めてもらうぞ、と高圧的な土方風に、ほな辞めます、すんません、と言って、そのまま店を出た。

居酒屋のアルバイトは、それなりに続いた。アルバイトは女子大生の子が八人ほどいて、男は自分だけだった。ハーレムかと思いきや、自分は厨房と洗い場担当で、鬼の料理長に怒られながら天婦羅を揚げたり野菜を切ったりした。体育会系の部活のようで、労働終わりは汗だくで疲れた。すぐに辞めよう、と思ったが、鬼の料理長も労働が終われば途端に優しくなり、酒を奢ったりしてくれて、いつの間にか仲良くなった。キャンパスライフ丸出しの女子大生たちは皆元気で、当時の自分は人見知り激しく挙動不審だったが、そんな自分にも優しく話し掛けてくれた。年上の自分に対して、しまなかくん、と、なぜか全員がタメ口だった。皿洗いをする自分に、大変そうやね、手伝おうか?と言ってきた猿顔の女の子に、ありがとう、ほな皿を一枚ずつ割ってくれる?とボケたら、猿顔の女の子は硬直した。噂は広まり、以来、自分は変な人扱いを受けた。しまなかくんって家で本読んでそう、と言われたときは、読むよ、全部エロ本やけど、とボケて、今度ディズニーランド行くねん、と楽しげに言う女の子には、厨房で捕まえた鼠の死骸を見せて、ミッキーマウスおったよ、とボケた。その都度女の子たちは大して笑わず、ひたすら妙な空気になっていたが、自分はそれを楽しんでいた。元気な女の子に混じって、一人物静かな子がいた。名前は忘れたが、桃のような顔をしていたのを覚えている。その子は唯一自分に敬語を話した。そして周りの女の子たちが自分のボケに硬直する中、桃の子だけはくすくすと頬を赤らめて笑っていた。一度帰り道が同じになった夜、自分は告白しようかと、迷った。けれどもいきなり告白するのは難しく、試行錯誤の果てに、今度天王寺動物園にカバ見に行かへん?と誘った。ううん、すいません、考えときます、ありがとうございます、と桃の子は言った。カバ嫌い?と言うと桃の子は、ううん、好きでも嫌いでも無いです、すみません、と言って困った顔をした。そうなんや、おれは好きやけどな、カバ。カバ結構ええで。じゃあ、お疲れ様ー。桃の子は、しばらくして辞めた。自分は一年以上働いたが、鬼の料理長が辞めたことを機に、自分も辞めた。

鬼の料理長が船場に小さな店を出して、そこで自分も働くことになった。カウンターのみの店だった。自分はこの辺りから、労働というものが辛くなってきた。遅刻も増えて、味噌汁をこぼして客にかけてしまったり、皿を割ったりした。怒鳴られるたびに、辛くなり、辞めた。

日雇いの肉体労働は、あまりにきつくて、二、三回だけ行って、辞めた。

新しくアルバイトを始めた。店長と自分の二人だけの、定食屋兼飲み屋のような店だった。店長は無口な人で、遅刻しても怒られなかった。二年ほど働いたが、店が暇なのですることが無く、やはり段々と苦痛になった。けれども労働自体は楽で、こんな楽な労働さえもが苦痛になる自分が情けなかった。もう労働はしたくない、労働をしなくても生きていく方法は無いだろうか、と考えた結果、自分で店をやれば良いのだ、と気付いた。労働ではなく、自分だけの仕事をしよう。それならば遅刻しても誰にも怒られない。飽きたら、そのときは辞めれば良い。そしてライヴ喫茶を始めた。

けれども金にはならなかった。やはり、少しはアルバイトをしなければ、煙草を吸ったり寿司を食ったりすることは出来ない。そのためには、月に三、四回は我慢して労働をしなければならなかった。

知り合いの紹介で、絵画モデルのアルバイトを始めた。爺婆の通う絵画教室へ行き、椅子に座り20分ほどポーズを固定する。休憩を挟んでそれを3セット。それだけで一万円ほど貰えた。爺婆が全員自分の肖像画を描いている。とある婆の絵に描かれた自分は、超絶な美男子だった。また、とある婆が描いた自分は、顔が紫色で髪がピンク色だった。それらの絵が展覧会に飾られることを思えば、面白かった。ヌードモデルもした。美大へ行き、うら若き美大生に囲まれた自分はパンツ一丁で真ん中の台に登り、パンツを脱いで素っ裸になる。アーティスト気取りの美大っ娘たちが真剣な眼差しで自分の裸体を見つめている。他では味わえない興奮を味わった。ポーズを取りながら、自分は頭の中で、美大っ娘たちに触られたり犯される想像をした。自分が射精した精液が美大生のキャンバスにべったりと付いて、これが本当の写生です、といったことばかり考えていた。労働自体は楽しいものだったが、モデル事務所との細かな連絡や徹底されたマナーが辛くなり、辞めた。

今は週に一度くらいのペースで、学童保育のアルバイトをしている。放課後の小学校で、子供たちと遊ぶ。職場の人たちは優しくて、遅刻しても怒られない。自分は、子供たちには完全に舐められている。先日などは、やんちゃな男の子に髭を引っ張られて腹をどつかれた。けれども、いざとなれば確実に自分の方が強い、と思えば、やり過ごすことが出来る。子供は、純粋にひねくれている。平気で嘘をつき、弱いものをいじめる。その純粋性には惹かれるものがある。あるとき、心優しい女の子が、折り紙で作った花をくれた。綺麗なお花やから、綺麗に育ててね、と言われた自分は、心を込めて、ありがとう、と言い、大切にポケットに仕舞った。けれども労働が終わった途端に、解放された奴隷の如く舞い上がった自分は、頂いた給料を即座に散財、全てを忘れて飲んだくれた挙げ句、夜中にふらふら帰宅して布団に転がり、ポケットから出てきたぐしゃぐしゃの折り紙を見て、あ、と言い、己を恥じるとともに、労働を憎んだ。

いつか、労働などせずに、暮らせますように。

何もいりません。舞台に来てください。