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わたしの公文の先生

小学一年生から、夏休み中は公文に通わされていた。教科は算数だけ。坂を自転車であがったところにある公文の教室。先生の自宅。今もあの家の匂いを思い出せる。よそのお家の匂い。少し緊張するけど、懐かしい匂い。

今は習い事というと、駅前のテナントとかで雇われの身の先生が多いのだろうか。スイミング以外は、書道もピアノも公文も、先生の自宅だった。離れだったり、自宅の専用の別室であったり。その先生の佇まいを感じさせるよそよそしさを感じる場。

どの先生も、女の先生。きっと子育てで一度仕事を離れて、一念発起して、家族の協力を得ながら、家族のための人生から自分自身のためのそれに軌道をゆっくりと戻し始めたというか。

わたしの公文の先生はすらっと背が高かった。長めの黒髪を頭の低い位置で小さくまとめ、きちんとした印象。無口だった。公文の先生になるくらいだから、結婚前は教師をしていたのかもしれない。顔はぼんやりとしか思い出せない。顔立ちのくっきりした、フリーダのような顔だった気がする。小学1年生の私には、中年女性の年齢はよくわからなかったけど、今考えると40代半ばくらいのように感じた。実際はもっと若かったかもしれない。

私はいつも教室が空いている15時くらいに通っていた。教室では生徒は私一人だった。折り畳みの長机にパイプ椅子が3つずつ。先生が時々プリントの進捗を覗きにくる。いつ来るかわからないので、パイプ椅子の上に正座をして問題を解いていた。学校とは違い、1枚のプリントを終えると、別のパターンや少し難易度を上げたプリントを棚からすぐに出してくれてうれしかった。

正座で足がしびれて、先生が採点中に足をもぞもぞしていると、「おしっこに行きたいの?」と尋ねられたことがあった。

夏休み以外は、公文には行かされなかった。

夏休みではないある日、家と公文の教室とのちょうど中間地点にある小さな商店に、友達とおやつを買いに行った。100円玉を握りしめて。いつもなら100円でお釣りがくるはずの商品だったが、その日は店員さんに「101円です」と言われ、レジの前で固まった。

その年は、消費税が日本に初めて導入された年だった。

すると、隣りから指の細い手がすっと青いプラスチックのお金の受け皿に伸びてきて、1円玉が置かれた。伸びてきた腕から顔を辿り見上げると、公文の先生だった。にこりともせず、無表情だった。なにも言葉を発しなかった。子供に媚びない人だった。

「私のことを覚えていないのかもしれない」と心の中で言い訳をして、私はお礼も言わずに、商品を受けっとって店の外にそそくさと出た。一緒にいた友人に「さっきの人、公文の先生だった」と呟いた。

あの先生は、どんな人生を歩んできたのだろうかと、いまふと思う。結婚して、子育てをして(子供がいたのかは知らないけれど)、教室を立ち上げて、運営して。いまテレビで目にする「KUMON いくもん♪」の公文のCM。パステルカラーのカットソーをきた30代くらいの既婚の女性がイメージとして画面に映る。あのふんわり軽いイメージとは真逆の。フリーダのような、どちらかというと暗い、一人の女の一生を背負った佇まい。彼女たち。

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