私の家の猫

15年前の8月2日
うちにキジトラの子猫がやってきた。
野良猫で3びきの兄弟で近所のおばさんの家に保護され、私と妹と友達で飛びついて見に行った。
夏休みのその日はいつも通り親のお手伝いを頼まれて、生協の集団注文の商品を取りに行った日だった。ただのめんどさいお手伝いがこんなに嬉しかった日は後にも先にもこの日だけ。

3匹は全員違う模様。
黒猫は寝ていて、その上に三毛が乗っていた。そしてその上にみゅうっみゅうっと私たちの方をみて元気に鳴くキジトラがいる。
目がくりくりしていて模様も綺麗でダントツで1番可愛かった。
金・土・日と家族会議が繰り返され、日曜日の夕方、父の「…じゃあ飼うか。」と一言で私と妹は飛んでおばさんの家に行き、キジトラが家族になった。

それからもう毎日毎日、心躍る毎日だった。
暑い夏の空気と涼しく家に入る風。夜はエアコンの冷たさ。そこに新しく来た可愛い可愛い子猫。
あの毎日はもう戻ってこないけど全部今でも鮮明に覚えている。

もちろん大変なことも沢山あった。最初の猫だからトイレも全然上手くいかないし、みゅうを怒ったことも振り回されたことも、噛まれて引っかかれて泣いたことも何度もある。
学校の1行日記は毎日毎日みゅうの事だった。

父も母も猫を飼ったことがあるけど私と妹は初めての猫。今なら常識のようにわかる「猫あるある」も全部みゅうで知った。

猫は飼い主が悲しんでいてもそれを察して寄り添ってくれたり、慰めてくれたりなど、しない。
撫でるのも抱っこも許可がいるし、自分の要求は押し付けてくる。
やっと帰省して猫のことばかり考え、1番に家の中で猫を探して会いに行くのに、猫は見つからないように逃げたり、面倒くさそうに離れたり、そもそも覚えていなくて威嚇する。
でも家にみゅうがいるだけで私は幸せだった。
大好きで大切で無意味にみゅう、みゅうと名前を呼んだ。


どんなに大切な家族でも猫は人間じゃない。

同じように歳をとることは出来ないし、何かあっても駆けつけて行くことも出来ない。
だから最後に撫でさせてもらうことも出来ない。

人間は想像力が豊かで、考えることは誰にも邪魔されないし、そうであると思い込むことが出来る。

みゅうとぎぃこは今一緒におじいちゃんに撫でてもらいながら静かに暮らしてくるのでしょう。



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