日記 2024/06/02

誰か俺を救ってくれ。そう臆面もなく言えるかどうか、そこに人間の度量が現れる。救いを求める者が必ずしも救いを受け入れられるわけではなく、差し伸べられる救いに気づけるわけでもない。救いはそこら中にある。あるはずなのに、見えないのだ。見えないから、その手触りも信じられない。自分を信じられず、他人を信じられず、世界を信じられなくなるのだ。夜、無性に叫びたくなって、しかし声は出ず。肌の裏側を無数の虫が這いまわるような鬱屈のなかで、未だ正気を保ててしまう。救いは必要ない、俺は一人でも生きていける、俺は強い、俺は孤独にも打ち勝てる。そう思いながら、成長と好転を笑顔で待ち続ける毎日に、明日からまた挑むのだ。俺はもう救われている。救われているんだ。

お前が俺を救ってくれ。そう臆面もなく言えたなら、どれほど救われることだろう。「これは本当に救いなのか。」そう問うて、「それは本当に救いだ。」と答えてくれる者を信じられるか。その声すら信じられないなら、救われることはできない。救いとは信じることだ。自らの不遇を、自らの無能を、自らの不満を、そこに意味があって道理があって納得ができると信じることだ。お前を信じる、そう思えた瞬間にもう救われている。人間が一人で背負うには、魂の21gは重すぎる。その半分でもいい、お前が背負ってくれないか。本来は俺が背負うはずの、それを預けていいと思えるお前がいれば、それだけで俺は救われるんだ。本当に背負う必要はない。「お前」が一人いるだけで、もう救われる。俺にとっての「お前」は誰だ。俺には、口が裂けても言えない。

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