時事雑感:香川照之の件について

 連日、香川照之の醜聞で世間が騒がしい。
 旧統一教会との関係の問題でほとほと困り果てた政治家の先生方が張った煙幕なのだろうという視点は、今回はあまり深掘りせずにおく。

 夜の街での、著名人の、下品極まりない遊び方。
 3年も前の、しかも示談が成立しているらしいという事実を差し引いても、これなら世間は食いつかずにおれまいと考えた永田町のチョイスは、そこそこ当たりだったと言わざるを得まい。
 有権者の心を推し量りがっちり掴むことは、政治家の必須能力である。


 各人思うことはおありだろう。
 私は今回、倫理的な視点での善し悪しの話は、あえて一切しない。
 こう言うと、香川照之擁護かと思われるかも知れないが、そうではない。
 私はああいう、下品な遊び方は、大嫌いである。
 それをまず、踏まえていただいて。

 私が感じたのは、「このことが、『銀座』で起った」という事実に対する、軽い驚きであった。

 人間は、必ずしも聖人ではない。
 札ビラで頬の二~三発も張り飛ばし、人としての尊厳を売り払わせて楽しみたい、そんな暗い、しかしどこか切実な欲が、抑えられない夜もあるだろう。
 重ねて言うが、良いか悪いかはまた別の問題だ。
 これを良い話だなどと言うつもりはこれっぽっちもない。

 ただ、銀座という街は、それを許さない街なのだと思っていた。
 銀座では、みな、いわば、綺麗な遊び方をするものなのだと、私は、ずっとそう思っていた。
 だから、驚きを覚えたのだ。
 香川照之という人の人間性を信じていたからではない。
 この話の舞台が、たとえば六本木、新宿、池袋あたりだったなら、私はさほど驚きはしなかったような気がする。

 伊集院静がエッセイに書いていたのを、読んだ記憶がうっすらとある。
 うっすらなので、うろ覚えだけれど。

 銀座は、特別な街なのだという。
 銀座で遊ぶ客には、「銀座の男」と呼ばれる者がいる。
 しかし、ただ銀座に通いつめればそう呼ばれるのではない。
 地位や名声の威光を浴びせ、或いは金を惜しげもなくばらまきさえすれば、それでいいというのでもない。
 何よりも必要なのは、矜恃なのだ。
 それを持つ者だけを受け入れるのが、銀座という街なのだと。

 生きていれば、いろんなことがある。
 良いときもあれば悪いときもある。
 苦しいことも、山のように訪れる。
 それでも、苦しみをぐっと隠して、背筋を伸ばして、綺麗に笑う。
 銀座は、そんな在り方を教えてくれると。

 銀座の男に教わり、銀座の女にあしらわれ、そうしていつか「あの人は、銀座が似合うね」と言われる人間になる。
 そうできない人間は、この街では遊ぶのを許してもらえない。
 誰からの許しというわけでもないけれど。

 そんなような内容だったと思う。

 特別な街。
 そんな街だった時代が、きっと、かつては確かにあったのだ。

 しかし。
 池袋の場末のキャバレーでも許されるかどうか、そんな下品な遊び方を、誰も止めることが出来なかった時点で、銀座という街は、一度死んだのだと思う。
 いつからこんな街だったのだろう。
 古き良き日本の文化を追求する職種の人間が、古き良き銀座を殺す。
 人間の業の深さたるや。


 身も蓋もない話をするならば。
 男にもいろいろいれば、女にもいろいろいる。
「その後、胸の谷間に札束をねじ込んでくれるんなら、ブラの一枚くらい、どうってことないわよ」とケロッとするような、それでいて「客の情報は売らない」と口をつぐむような、そんな女を選んでさえいれば、こんな騒ぎにはならなかった、とも言える。
 そんな女が、銀座にいるかどうかはわからないけれど。
 再三言うが、良い悪いはまた別だ。

 つまり、そうではない女相手にこんな遊び方をしたということは、「香川照之は、女を見抜く目がない」ということになるのだ。
 女の人間像を、観察、認識、把握する能力が、著しく欠けている。

 歌舞伎役者として、致命的である。
 少なくとも、彼の女形には、説得力は生まれまい。

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