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【落語・講談台本】逢魔が辻⑤

 どれほど眠り続けていたでしょうか。
 傷の男はようよう目を覚まします。
 さほど重くは思ったことのなかった綿の布団が男の背中を痛めつけ、男は歯を食いしばりながら身を起こします。

「ああ、与吉さん。与吉さん。いねえのか。どこ行ったんだ。おい。誰か。誰かいねぇか」
「はい。ああ。お目覚めになりましたか。ご気分はいかがですか」
「ああ女中か。おい。与吉さん、どっか行ってんのか。部屋にいねぇみてぇなんだが」
「はい。相部屋のお客さまでしたら、今朝早くに、ここをお発ちになりましたが」
「…なんだと?」
「ええ。何でも、商いで大坂に行かれるとかで」
「それは俺も聞いてる。ほんとにここ、引き払ったのか」
「ええ、そのように聞いてますけど、何か?」
「ああお前じゃ話にならねぇ。主呼んでくれ」
「はい。ただいま」

「あ、お気がつかれましたか。本当にようございました。それで、手前どもに話というのは」
「ここで相部屋だった客、ここ発ったってほんとか」
「あ、はい。何でも商いで大坂にいかねばならない、いろいろあってこちらに足を止めたが、もうこれ以上日延べをするわけにもいかない、部屋ではまだ目を覚まさず眠っておられるから、起こさず行く、ろくに挨拶も出来ず済まなかったと詫びておいてくれと、そのように仰ってましたが」
「他には何も言ってなかったのか」
「何か、とは。…ああ、よく解らないままあのような医者を連れてきてしまって申し訳なかったとも、仰ってました。それから相部屋となった間のお代はきちんとお支払いになってゆかれましたから、そこはご心配なさらずとも」
「そういうことじゃねえんだ。あ、いや、それはそれでな、ああ、解った。解ったがな。…ちっ。そうか。まあいい。すまねえが、飯の前にちっと風呂入らせてくれ。ここの湯は湯治もできるんだろ」
「あ、はい。それは結構でございますが、それで、あの、お客さま」
「何だよ」

「お客さまには、随分と手前どもの宿をご贔屓にして頂いておりますが、初めに頂戴しましたのが一月分の宿賃、ということでしたでしょう。そろそろお泊まりも一月ほどになりますし、この後は、どうなさいますか」
「そうだな。背中がこんなじゃどうにもしょうがねぇ。もうちっとばかし、いさせてもらいてぇんだが」
「畏まりました。では、そのように手配を致します。また一月ということでよろしゅうございますか」
「ああ、いや、まずは治るまでだな。その後のことはその後考える」

 そう言いながら、何気なく胴巻きの中をさぐった男、さっと顔が青ざめます。
 財布がない。
 男はこれでなかなか世慣れてはおりますから、金を財布に一纏めにしておくほど不用心ではないものの、このまま幾日も居続けをすると、流石に先行きが怪しくなってくる。
 どこで無くした。いや無くすはずがない。盗られたか。あの藪医者か。与吉か。女中か。いっそ主に尋ねてみるか。
 しかし、主に迂闊に尋ねて、役人を呼ばれでもしたら面倒なことになります。また、それを嫌がり不審に思われでもしたらたまらない。

「ああ、やっぱり、明日にでも発とうかと思うんだが」
「え、左様でございますか? しかしお体のほうは、大丈夫なので」
「ああまあ、今日一日ゆっくり湯にでも浸かれば、どうにか動けるようにはなるだろう」
「左様でございますか。でしたら、明日出立の際、お代の方を頂戴致します」
「ああ。長いこと世話になったな。ところで」
「はい、何でございましょう」
「俺の部屋に飯の支度だなんだで来てた女中が、ここしばらく顔を見せねぇんだがな、何かあったのか」
「ああ。あの娘なら、宿下がりをしておりますが」
「さとに帰った? いつだ」
「二日前でしたかなあ。急な話でしたし、少し長めに休みを頂きたいと申しまして。…あの娘が、何かいたしましたので?」
「あ、いや…」

 男は湯に浸かりながら、さてと思案を巡らします。
 与吉について大坂、そこまで行かぬまでも、駿河辺りでほとぼりをさますつもりが、それはもう叶わぬ。
 手持ちの金は随分減ってはしまったものの、それならまた一稼ぎすれば済むこと、粉をかけていた女中を連れだし、小田原辺りで売り飛ばそうかと思ったのに、なぜあの女は黙ってここを発った。逃げねぇ程度には惚れさせておいたはずなんだがと、傷の残る顔を、両手で掬う湯で流す。
 女中の戻りがいつか知れないのなら、それまでここで待つわけにもいくまい。江戸に戻って、吉原や岡場所の馴染みの部屋にでも転がり込むか。しかし江戸はまだ危ない。さあ、どうしたものか。

「どうして一人で行っちまったのかな。あの野郎。大坂ならば身を隠すにも食いつなぐにも良かろうと思えば、下手に出てやってたってのに。だいたい野郎の灸がケチのつき始めだ。どうにもおかしい。妙な方に、話が流れて行きやがる。こんなことは、今までなかったんだがな」

 思案のまとまらぬまま湯から上がり、部屋に戻ると、隣の部屋に、誰やら客が入った気配がある。聞き耳を立てて様子を窺うと、どうやら若い女と年嵩の男であるらしいとわかります。

「おい。女中ちょっと。隣に客が入ったんだな。あれ一体、どんな客だい」
「え? お隣ですか? あの…」
「あああんたにも長いこと世話になったな。これとっときなよ。でさ、どういう客だ?」
「…ええ、あの、お伊勢参りに行かれるとかで、今夜一晩お泊まりの方です。江戸の呉服問屋のご新造様だとお聞きしてますが」
「へぇ。そうかい…」

 これはまさしく天の助けとばかり、男は隣の客に近づきます。

「ちょいとごめんくださいよ。ああいや、話の邪魔するつもりはなかったんだ。怪しいもんじゃねえから、安心しておくんなさい。俺は隣の部屋にいる者ですがね。聞くともなしに、ちぃと話が聞こえちまったんで、それでちょっと声かけさしてもらったんだ」
「そうですか。騒がせてしまったようですね」
「ああいやいや。そんなこたぁありません。そう気にしないでおくんなせぇよ。へぇ、見れば結構な旅支度のようだが、これからどちらまで行かれるんです?」
「ええ。子宝を授かるようにと、伊勢に参るところなのです。これまでは店が忙しくてなかなかその機会もなかったのですが、この度ようやく、今ならしばらくお前が店を開けてもなんとかなるだろう、物見遊山がてら行っておいでと、主人がそのように言うものですから」
「お伊勢参りですかい。そりゃ結構なことだ。どこのお店の、ご新造さんで?」
「江戸で梅屋という呉服屋を営んでおります。江戸にお越しの際は是非お立ち寄りくださいまし」
「ふぅん。梅屋、ですかい…」

「どうか、しましたか?」
「いいえぇ。梅屋、ねぇ…。
 ふぅん。こいつは。ちっと、大博奕になりそうだな」
「何のことです」
「いえいえ、こっちの話で。ええ。ところで、来てもう数刻経つのに、あまり荷ほどきされていないようだが」
「ええ。やはり店も気がかりですし、明日には発とうかと思っているのです。こちらには、戻りに余裕があればゆっくり泊ろうかと」
「へぇ。そりゃようございますねぇ。箱根の湯は疲れを取るのにうってつけだ。いや、あたしも死ぬまでに一度でいいから、お伊勢参り、いってみたいもんでございますよ。ところでね、ご新造様。ものは相談なんでございますがね」

「何です」
「いやね、こちら、見れば若い女と、歳のいったおつきの二人旅。道中何かと心配じゃあございませんか? この辺りまでは、どうということもございませんがね、関所を越えた先には、幾つか難所もある、行く先々で出会うのは仏ばかりとは限りませんよ。ましてこんな綺麗なご新造さんだ。無事、戻って来れりゃあよろしゅうございますがねぇ。
 そこでね。どうでしょうね。道々あっしが供をして差し上げようかと、こう思うんでございますが、いかがなもんです? 何、そこの手形に、ちょいちょいと、足して頂ければよろしいんで。何なら、おつきの方ぁ、ここでお待ちいただければ、あっしが代わりについていってもよろしゅうございます。どうでしょうねぇ?」

「お心遣いは有り難く思いますが、供はもうおりますから」
「いやあ、やっぱりねぇ、このまま行かせるのは心配だ。どうにも気になって仕方がない」
「そなたにそこまで気にかけてもらう必要はありません」
「ご新造様。あっしはねぇ。ここまでは言わずにおこうかと思って、黙ってたんですがね。そんなに仰るんなら、お尋ねしますよ。
 ご新造様ぁ。お前さん。本当は町人じゃないね?」
「お前一体何を」

「身なりやなんだで、上手に隠しちゃいなさるがね。あっしの知ってる町家のご新造とはちぃと毛並みが違う。それにこう見えてあっしは江戸の出なんですがね。梅屋という呉服屋、そこにこんなご新造がいるなんて話は、聞いたことがねぇんですよ。
 ご新造さん。ひょっとして、お武家の出じゃあ、ねぇんですかい? お内儀さんとお呼びした方がよろしいのかな」
「何を、そのような」
「それその言葉遣いもね。染みついたもなぁ、なかなか消せませんやねぇ。武家のお方なら言われるまでもなく御存じでしょうが、箱根の関所は出女にはそりゃあ厳しい。ま、関を越す策はそれなりに用意しちゃああるんでしょうが、その前にここでとっつかまっちゃあ、方々にご迷惑がかかるんじゃあ、ございませんかねぇ」
「…」

「そこのおつきの方もね、武家の中間に町人の振りさせるばかりよりゃあ、ほんとに町人が一人混ざってるだけでね、役人の印象も随分違うと思いますよ。
 何も、とって食おうって訳じゃねぇんだ。あっしも関所を越えたい事情ってもんがあるんですよ。何、持ちつ持たれつ、袖すり合うも多生の縁ってやつだ。ついていかせちゃあもらえませんかね」

 しばらくまんじりともせず見合っておりましたが、女の方が一つ溜息をつきまして。
「いいでしょう。手形に書き加えましょう」
「よろしいのですか奥方様」
「仕方ないでしょう。ここで足止めされるわけにはいかないのです」
「しかし」
「この男にも何か事情があるというのですから、関所を越えさえすれば後はどうとでもなるでしょう」
「話まとまりましたか。それじゃまあ、よろしくお願いをいたしますよ。ところでね、ご新造様」

「何です」
「ああ、その言葉遣いは、本当にちっとどうにかした方がいいですよ。
 それはそれとしてねぇ。明日から一緒に旅ぃするんだ。ちったぁ気心も知れた方がお互いようございましょう? しかしこの宿は女中が結構多い。人に聞かれたくない話するのにゃ、いささか不便だ。
 そこでね。そろそろ日も暮れる。腹も空いたでしょう。あたしが屋根船手配しますから、そこで、ふたりで飯でも食いながら、明日の段取りつけましょうや。ついでに、町人の女の言葉遣いもとっくり教えて差し上げますよ。どうです? それともあっしのこと、まだ信用なりませんかい」

「黙っておればどこまでも」
「よしなさい。いいのです。確かに話は合わせておかねばなりません。それを、人に聞かれてはまずいというのも、この男の言うとおりなのです。お前はここで待ってなさい」
「しかしよろしいのですか」
「少しは武芸の心得もあります。心配は要りません」
「へえそりゃ大したもんだ。道中頼もしいですねぇ。それじゃあっしは手配をしてまいりますんで、後ほど」

 傷の男が部屋を出て行く。
 すぱんと襖を閉め、足音が遠ざかるのを、残されたご新造と供の男、すうっと表情を消し、じっと聞いていた。
「何にも知らねぇで、随分浮かれてやがりますね。それじゃあっしは、ちと船頭のほうに話つけてめぇりやす」
「ああ。行け」
 そのご新造の声は、先程の鈴のような声音とは打って変わって、低く、底冷えのするような冷たい声で、ございました。

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