無門関雑感「自分で現代語訳」のススメ

 無門関の公案の文章は、他人が現代語に訳したものより、自分で読み下し文を読んで訳する、読み下し文でも解らない部分は原文にまで立ち返って訳するほうが、中身を理解しやすくなるように感じています。
 誰かの訳を読んだだけではさっぱり解らないのに、自分で訳したら、途端にいろんなことが思い浮かぶ。
 そういうことは、これまでどの公案に取り組む際でも、必ず起りました。
 他人の書いた訳文では、どうにもピンとこないことが多い。

 その訳文は、誰が書いたものでも、私にとっては大差がありません。
 訳の上手い下手も、あまり関係がないみたいです。
 どうしてそうなってしまうのか。
 おそらくですけど、彼らは、程度の差はあれ、公案の現代語訳の中に、「自分が感じた『解釈』」を、意訳という体で、いきなりぶち込もうとするからです。
 評唱と頌の部分で、特にその傾向が強い。
 初心者である私にとっては、その部分が非常に重要なのに。

 原文や読み下し文を読んだ人が、何かを感じることは大いに結構なことだと思います。
 しかし、公案の訳文の中に、さも原文にはっきりとそう書かれていたかのように盛り込み、最初からそう受け取ることを強制されたら、私はかえって混乱してしまいます。
 訳のわからなさ、ある種の違和感のようなスッキリとしないものを、漠然と感じてしまうのです。
 思えば、私がオペラ座の怪人にどハマりしたのも、四季版のオペラ座の表題曲の和訳に違和感を覚えたのが切欠でした。こういうこと、私多いなあ。

 もちろん、訳者の意訳が盛り込まれた訳文のほうがイイという人も、いるのだろうとは思います。
 けれど、少なくとも私は、そういう訳文とは相性がよくなかったし、今のところ相性のいい訳文には、出会えていません。
 禅の公案については「元々の文章」と「時代背景や知識の補足事項」と「偉いお坊さんの見解」と「訳者の独自解釈」を、できる限りでいいので、それぞれ、解るように、分けておいて欲しいと、思ってしまうのです。
「よかれと思って」という情は、理解できるんですけどね。

 多分これは、無門関に限ったことではないのでしょう。
 国内の古文や、海外の文芸作品、演劇、そういうものにも、当てはまるのかも知れません。

「訳者のフィルター」は、極力外す方がいい。
 文章を、できるだけその文章のまま、そのまま読む方が、かえってその本質が見えやすくなることがある。
 一見遠回りなようなのに、気がついたら、はるかに近道になっている。
 遠回りは近道。近道は遠回り。
 何だかこれ、無門関に書かれている、禅の本質に、通じる事例のようにも、思えるんですよね。


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