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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#エッセイ部門

5ドルで買う夢

帰宅途中、ハイウェイをひとつ手前で降りると小さな中華料理の店を通る道に出る。(アメリカ東で教師をしています) ゴミを極力出さない生活を徹底し始めてからは、もう外食もテイクアウトもしていないが、この学校で働き始めた当時は何ヶ月かに一度、学校の帰りに中華をテイクアウトすることがあった。 包丁も握りたくない、電子レンジでチンするのもめんどい、パンをトーストするのもだるい、それほどに遅く疲れて帰宅することが多かった頃だ。 その小さな中華は、アメリカではどんなに辺鄙な街にでも必ずあ

ボンタンアメの風景

ボンタンアメをひとつ握りしめている。 あまり早く食べてしまうともったいない。 でも美味しいので早く食べてしまいたい。 長く手に持っているとオブラートが溶けてしまう。 次のトンネルが来たらこれを口に入れよう。 小学一年の夏、宮崎の田舎から1時間ほど離れた別の田舎まで、土曜日にひとりで汽車に乗っていた。母方のじいちゃんが国語の教師、高校の校長先生を退職したのちに自宅で習字教室を開いており、そこに通っていたからだ。 学校が半ドンで終わると、駅近くにある父方のばあちゃん家で急いで

さよなら殺し屋

大学生の頃、クラスメートの男の子にデートに誘われた。 彼はクリクリの肩まで伸ばした赤毛に鼈甲のメガネをかけ、いつもパリッとしたシャツにチノパンというきちんとした格好で授業に来ていた。 私が通っていたロッキー山脈が見えるコロラドの大学にはそんな男子はいなかった。 みなパーカーかトレーナーに汚れたジーンズか短パン、靴下にサンダルもしくはトレッキングシューズなどのカジュアルな格好だった。 彼、ローマン、はまるでニューヨークかボストンから来た様な洒落た出で立ちでクラスの中で目立つ

教師を続ける理由:透明のエンジニアと春巻に思う

どうして先生になったの?と聞かれることが多いのですが、コレだ!という理由は見つかりません。 学校は特に好きではなかったし、覚えている先生もほとんどいません。 ただ先生を続けるきっかけとなった出来事はありました。それは自分の人生で一番に後悔がいっぱいの、思い出すたびにぎゅっと胸が締め付けられる出来事です。 アメリカの大学3年、4年時にボランティア活動をすると就職に有利だと大学に言われ、ボランティアをいくつかしたことがあります。 留学生で労働ビザもありませんし、ボランティアし

幽霊裁判:敗訴2例

小学校高学年のころ住んでいた家は大きな病院のすぐ目の前だった。 夕方薄暗くなってからは、その病院の入院棟の前の小さな道はちょっと怖いくらい静かで、まだ早い時間、6時とか7時とかでも、しんと静まり返った古いコンクリートの大きな建物を通り過ぎる時は自然と早足になった。 ある夕方私はその道を歩いて家に帰る途中に、建物の外に立ち、窓枠に手をかけて中を見ている白っぽい人間を見た。一瞬よりももっと長く見たが、ちょっと怖くなって確かめることもなく走って逃げた。 確かめる、とはそれが生身の

一泊400万円(2食付き)

7月の末、その日は新しい教師候補のデモレッスンだった。 小さくえらいポジションにいる私がスカイプで面接して、この人はいけるかもしれない、という判断をし、教頭やら校長やらの大きくえらい人たちを集めてのデモレッスンを見る日だった。 大学を出たばかりで経験はあまりないが、うちの学校でぜひ働きたいと言う彼女はスカイプでは教師としてのいい素質がたくさんあるような話ぶりと雰囲気だった。ただ、実際に教えているところを見ないと何とも判断はつけられない。チームに入り、他ベテラン10名ほどの教師