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なんの仕事をしているかわからない、家にほとんどいない父親

僕の父親は高校卒業と同時に日産(?)のディーラーに就職して社会人になったらしい。実際には高校生の時代から勤労学生だったとかいって自慢げ語っていたことによると、若松に寄港した荷下ろし後の石炭船の底に残った石炭ゴミを拾い集めてどこかに売り飛ばす商売をしている悪い人に雇われて、高校の同級生の友達を数人集めて作業をさせる(自分は作業をせずに甲板から懐中電灯で照らして「そこにある石拾え〜」みたいな司令塔だったらしい)という今でいう闇人材派遣業で稼いでいたらしい(笑)
日産のディーラーの営業マンを数年勤める間、おそらく父はどこかで母と出会い、結婚して母親は僕を身ごもった(ここら辺の順番に関しては諸説ある)

その後、両親は父親の実家である八幡の紅梅町のらいおん食堂を二人で手伝い始める。自宅はらいおん食堂から徒歩5分くらいのところにある木造長屋。ちょうど僕の自宅とらいおん建築事務所の距離感である。

母親は僕が小学校5年生くらいになるまでらいおん食堂で働くことになるのだけど、父親はなんと僕が5歳くらいの時にらいおん食堂を離れ、どこかの料亭みたいなところに料理修行に出た。その後、一旦らいおん食堂の仕事に戻った気もするが、ほとんど時を置かずして小倉の小さな広告代理店に就職した。そしてバブルを迎える。バブル真っ只中の北九州でイベント企画運営や地元企業の新聞広告や折込チラシテレビやラジオのコマーシャル制作。華々しい時代だったと思う。

父親は勤めていた会社から独立を果たして西小倉の小さな事務所を借りて自分の広告代理店会社を立ち上げ起業した。事務所のオープンをする時に、テレビとビデオデッキを繋ぐケーブルの繋ぎ方がわからないから、それを買って来てつないでこいと言われて手伝ったのを今でも覚えている、おそらく小学校6年生か中学校1年生の時だった気がする。福岡にも事務所を構えていたし、ほとんどありえない状況である。

おそらくバブルが崩壊したタイミングぐらいで事業規模の縮小を余儀無くされた父はこの事業を廃業した。そして、魚町の中屋興産の先代社長である梯邦明に出会う。小倉のリノベーションまちづくりの不動産オーナー梯輝元さんのお父さんである。父親は魚町の界隈で当時複数あったゲームセンター業の近代化を果たした(これに関しては色々書けないことが多すぎるので、ここでは単に近代化を果たしたと書いておく(笑))

その間様々な人と出会ったりして魚町の事業を離れて、海外から輸入した女性の基礎化粧品のテレマーケティング会社の役員をしていた時期もある。その後、その会社を離れいくつかの会社の代表や顧問をしながら自分の事業を小さく開始し、今の小倉の家守に落ち着く。これがざっと職歴。

で、前置きが長くなってしまったけど、何が言いたいかというと、僕が幼少のころから高校を卒業して東京の大学に入学するまでの十数年間のほとんどの期間、父親は家にいなかったということである。なんの仕事をしていたのかは後から知った。夜はほとんど誰かと飲みに行っていた。だいたい中学3年くらいになると、父親は飲みに行って誰かと誰かを引き合わせてそれによって何かを生み出し自分の仕事にしている、というのだけは正確に捉えていた気がする。

それから、そういう父親の生き方から無言に学んだ最大のことは「なんとかなる」ということである。大企業に就職しなくても、もはや会社になんか所属しなくても自分と家族の食い扶持をなんとかするくらいはきっとどうにでもなるだろうというある種の強い楽観である。

いずれ、大学の進学と就職のタイミングで世間一般では考えられないような選択肢をチョイスしようとする僕の一番の理解者になったのも他ならぬ父親なのである。

で、一番謎なのが、こんな生き方をしておいて、嶋田秀範さん(父)は、みかんぐみに就職した2年目の僕になぜか、北九州市役所の中途採用求人があることを僕に告げて、勧めてきたのである。

「うん、わかった!おれ、父ちゃんと母ちゃんを安心させるために公務員になるよ!」とか言うわけないのに。

あれは一体なんだったのだろう。何れにしても、親の働く姿を見せたほうがいいというのは絶対的に正しいと思っているのだけど、遊んでばかりいる姿を見せるというのも、最大の教育効果を生むだろうと今では思っているのである。

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