バカなやつらと教育勅語
教育勅語を現在の教育の場で掲げる問題点は、その内容というよりも、”勅語”という言葉の通り、それが朕(天皇)が臣民に対して、勅(いまし)められたものであるという形式。
「教育とはどうあるべきか」「何のために学ぶのか」という課題を、私たちが主体的に考えるのではなく、その答えが示された”おことば”の客体として、受容する。
その姿勢こそが、時代錯誤ではないかと思うのです。
加えて過去、天皇からの勅語・”おことば”と云えば、臣民に対して、疑問を挟ませる余地のない、絶対的な力=権力をもったもの。
そうした権力的な言葉を掲げる者が、虎の威を借る狐といった風に、勅語の威光を担保として、あたかも自身が権力の代行者であるかのように、横暴に振る舞いだす。
小津安二郎の名作『秋刀魚の味』の中で描かれる復興期の東京、笠知衆と加東大介のやり取りを思い出します。
「(日本は戦争に)負けてよかったじゃないか」
「そうかもしれないな。バカなやつらがいばらなくなっただけでもね。」
教育勅語を掲げる幼稚園で、園児が漏らした排泄物をカバンに入れて持って帰らせる、犬を飼っている子供に「犬くさい」などとの暴言を吐く等の、虐待とも思われる行為が露見しているという話にも、「さもありなん・・・」といった感想です。
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