【長編小説】踊る骨 エピローグ/高村恵子
エピローグ
「亜美ちゃん、おはよう。気分はどう?」
高村恵子はいつものように亜美の骨にむかって話しかけていた。左手の親指の第一関節から先の小さな骨だ。
彼女は亜美の両腕が助けをもとめるように青いシートを持ち上げていたという話を人づてに聞いたにすぎなかったが、その光景をありありと思い浮べることができた。
どんなに淋しかったことだろう。
どんなに恐かったことだろう。
まだ五つになったばかりなのに、それはあの子にとって、死よりも辛かったに違いない。
亜美が指を吸うこともできなかった状況だったのは、恵子を落ち込ませた。亜美は、私がいくら注意しても治らなかった左手の親指を吸うことすらできなかったのだ。
厳粛な雰囲気の中ですすめられた亜美の火葬に恵子は立ち合った。
普通、幼いわが子が火葬されるというむごい仕打ちに耐えられなくて、肉親は席を外すものなのだそうだが、彼女は最初から最後までずっと亜美のそばから離れなかった。誰になにを言われても、いっさい耳を貸さなかった。棺桶のなかで添い寝してあげてもいいと思っていたほどだ。
小さな棺桶を開けて、悲しいぐらいに変形した亜美をずっと抱きしめていてあげたい。
もう何も心配ないことを知らせるために――。
もう何も恐がらなくてもいいことを教えるために――。
いま亜美は埋もれるぐらいの花とか、大切にしていたミルク飲み人形のプラちゃんとか、上の里美の時から読んでいてボロボロになった童話とか絵本とかを必要としているんじゃない。
私を必要としているのだ。
あきらかに私だけを――。
私のぬくもりに渇望しているのだ。
ああ、亜美が私を求めて思いきり腕を伸ばしているのが感じられる。
高村恵子は火葬された亜美の骨を、灰になったものまですべて飲み込んであげたい気持ちでいっぱいだった。
そうすれば今よりもっと強く亜美の存在が実感できるだろう。
生涯自分だけのものだと、感じ続けることができるだろう。
それが実現できなかったのは残念なことだったが、火葬場のスタッフに聞いた亜美の左手親指の小さな骨が得られただけでも満足した。その骨片を握るだけでも、亜美の手を、小さくてやわらかな手を、しっかりと握っているという実感があった。
そうすると亜美の声がすこしは安らぐのだ。
亜美の私を求める声が――。
恐くて淋しくて辛そうな泣き声が――。
大丈夫よ、亜美。母さんはここにいるわ。いつでも、いつまでもあなたのすぐそばにいるのよ。だから安心して――。だからあなたもずっとそばにいて――。
そんなことをしているといつまで経っても成仏できないという話に彼女は耳をかさなかった。亜美が冥途に行けずに現世で迷って苦しむだけだという話にも、まったく聞く耳をもたなかった。
亜美は私のものなの。私だけのもの。これ以上だれかに干渉させたりなんかさせるもんですか!
恵子は亜美の小さな骨片をそっと口にふくんだ。
最初に感じたザラザラした違和感はもうなくなっている。
心なしかちょっと甘くなったような気がする。
亜美らしいわ、と恵子はほほ笑んだ。
もうあなたはどこにもやらないわ。だから安心して、亜美。
もうずっとそばにいるの。
これからもずっと私のそばに――。
恵子は満面の笑みを浮かべながら、ぴちゃぴちゃと音をたてて、いつまでも亜美の小さな骨を、口の中で踊らせていた。
〈 了 〉
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