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小学生時代

いつも温かいご支援ご声援を賜り、誠に有難うございます。
嶋田祥吾でございます。

前回は保育園時代を振り返りましたので、今回は小学生時代を記載します。

①小学1年生・2年生

奈良県五條市に位置する五條小学校へ入学当初は4つ上の姉と共に通学をしていた。
入学後暫くすると、近所に住んでいた親友と通学する様になっていた。
休み時間や昼休憩時にサッカーをする事がとにかく楽しかった。
校庭のサッカーをする場所を早く確保しないと先輩たちに占領されるので、授業の終了と同時に一目散に校庭へ走って行き、場所の確保をしていた光景を思い出す。

勉強面は、可もなく不可もなくという感じであった。

サッカーは、クラブチームの五條FCに入団し、週2回の平日練習と週末の対外試合という週間スケジュールの流れであった。
平日練習は、両親が仕事の為に送迎が出来ないので、自転車で約40分程度かけて通っていた。
練習や試合が無い日は、家の前でひたすら1人でボールを蹴っていた。
とにかくサッカーが上手くなりたいという想いだけがあり、毎日が楽しかった。
たまに友達と遊んでいたが、取り立てて記憶は無い。

小学2年生の冬、大和高田市総合運動公園へ母に連れられて向かった先で驚くような衝撃を受けた。
そこで行われていた高田FC(現:ディアブロッサ高田FC)vsヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)の試合を観戦し、初めて自分よりも上手い選手がいることを目の当たりにしたて大興奮した事を鮮明に覚えている。

②小学3年生・4年生

父の「高田FCに入団したいと本気で思うなら入団したらいいぞ。」という言葉に対して、私は「高田FCに入りたい。」と即答した。

小学3年生になったと同時に高田FCに入団した。
しかし、電車の乗り方すらも分からないので、母に電車の乗り方や高田駅から練習場までの道順を一緒に同行してもらい教えてもらった。
母に数回は同行してもらい、その後は単独で通えるようになった。
学校の授業が終了して全速力で帰らないと練習に向かう電車に間に合わず、直ぐに着替えを済ませ、家から最寄駅へ自転車で向かい、高田駅まで電車に乗り、高田駅から練習場まで徒歩で向かうという怒涛の時間である。
所要時間は片道約1時間(自転車5分、電車40分、徒歩15分)であった。
学校の宿題は、電車の中で済ませていた。
練習後も約1時間かけて帰宅、帰宅すると21時の為、直ぐにご飯を食べて寝るという流れであった。

高田FCでは平日練習は毎日あったが、距離の問題で毎日通う事は厳しく、週2回のみの参加となっていた。週末の対外試合は、全て参加していた。
他の選手と比べると練習量が圧倒的に少ないので、練習に参加できない日はひたすら家の前で反復練習をした。

小学4年生になり、1つ上の小学5年生の活動に参加する機会が増加し、最初は楽しんでプレーをしていたが、徐々に遠慮してサッカー自体を心から楽しめなくなっていた。
それ以降、平日練習を休む事が増え、友達と遊んでいる方が楽しくなり、サッカーから少し距離を置いていたように思う。
勉強面は、塾に通い始めた事もあり、勉強法を掴み出し、少しずつ学力は上がっていた。

③小学5年生

練習に参加しない期間が続く中、やはりサッカーがしたくなり、徐々に練習に参加した。
1つ上の6年生の活動に参加する機会が大半であり、周りは上手い選手ばかりであったが、前回の反省を踏まえてt遠慮することをやめ、吹っ切って果敢にチャレンジした。
その後は、レギュラーとして運良く全国大会にも出場させて頂き、どんどん自信が付き、サッカーが最高に楽しくなっていた。
加えて、弟も高田FCに入団する事となり、一緒に練習へ行っていた事は良い思い出である。
3年生の時から通っていた塾はやめ、自分でしっかりとスケジューリングして勉強する習慣が少しずつ付いてきていた様に思う。

④小学6年生

高田FC、奈良県選抜の双方の主将を拝命し、チャンスを頂いた。
しかし、公式戦では悉く奈良県大会で負け、全国大会にすら出場出来ずに終了した。
関西選抜の選考会も全く通用せずに無力さを強く痛感した。
間違いなく自信が過信となり、周りを見下し、慢心していた。

結果的に、中学生になる間近の2月に膝の大怪我をし、長期間に渡りサッカーが出来なくなり、リハビリ生活が始まる。
その為、自身のメンタル維持が非常に難しくなっていた事は事実である。

次回は中学生時代となります。
今回も最後までご覧頂き、誠に有難うございました。

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