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"ボクノート"に書いてるんだ

何故かよくわからないんだけど、ブログよりもnoteの書き進み方が全然違う。

何故だろうと思ったんだけど、今日WALKMANで聴いた曲に答えがあったんだ。

スキマスイッチの「ボクノート」。

ボクがこのnoteに書き綴ること、書き綴れることに違和感がないことを、「ボクノート」と共に紐解きたくなった。そんなお遊びのような、ある1種テストのような。最後までお付き合いいただけるだろうか。

※スキマスイッチの「ボクノート」の歌詞は下記URLから全部見れます。

あまりにも、僕のnoteに書く姿勢をそのまま表現していたので、こんな記事を書いている。

「この痛みをただ形にするんだ」

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僕は、HSP(Highly Sensitive Person)の気質がある程度高い。

なので、傷つきやすい。もちろん、相手の痛みに共感しやすいという特性もある。あと、繊細なので聴覚視覚の感覚が鋭い。加えて、プレッシャーに弱い。

この特性は、当分付き合っていくことになるだろう。長所とか短所とかじゃない、「特性」だ。

であるならば、できることもあるんだろう、と思う。それは、「この痛みをただ形にする」ことだ。

今僕の中にある言葉のカケラ
喉の奥、鋭く尖って突き刺さる
キレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ
この痛みをただ形にするんだ

サビ1の通り、ボクはこのノートに言葉のカケラを書き留めていく。この痛みをただ形にする。

ボクが苦悩と向き合う、ボクが苦悩と向き合う人と共に歩む、そんな「痛み」をただ形にしていくのがこれからボクがノートに書くことだ。

もちろん、そんな上手くは行かない。

思いを綴ろうとここに座って言葉探している
考えて書いてつまずいて消したら元通り

残念ながら、ボクは不器用だ。でもいい。キレイじゃなくたって、少しずつだっていいんだ。

そう思って書き綴ってるんだ、と自覚した。

「もがいている自分も全部僕だから」

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こんなノートを書いてるボクが、普通に見たら明らかにイタイものだろう。実際、周りの目が気になるので、こんな自分かっこ悪いなども思う。

でも、そこに対しても、ちゃんと「ボクノート」は答えを、救いを置いている。

足元に投げ捨てたあがいた跡も
もがいてる自分も全部僕だから
抱えている想いをひたすらに叫ぶんだ
その声の先に君がいるんだ

誰かに届けたいこの声を紡ぐ中で、ボクはこのノートに書き続けるんだと思う。抱えてる想いを、ひたすらに叫ぶんだと思う。

あとから見たら「あがいた跡」は、なんかダサいかもしれないけど、それもぜんぶボクだと認めよう。それでいいんだ。それで。

「君に降る悲しみなんか晴らせればいい」

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ここまで読んでくれた人へ、ホントに感謝したい。ほとんど歌詞の引用と、僕の想いしか書いてないから。ありがとうございます。

最後に「ボクノート」に書かれてる書き手の姿勢が、以前書いたnoteにも似ているなと思ったのでそれで締めたい。

この声が枯れるまで 歌い続けて
君に降る悲しみなんか晴らせればいい

ボクはノートを通して、もしくはブログを通して、こんなことを書いた。

そんな日々、そんな苦悩、ひとつひとつ、小さくても、「宝石」になる。固まって1つの形になる。だから、「ささいなこと」はボクにとっては何一つ存在しない。この姿勢を忘れない。
僕のつぶやきだけでも、見てくれる人がいることがうれしい。 記事を読んでいる人がいることがうれしい。 だから、誰か救われたい人の力になれると思っています。

こんなことをひとつひとつ、でも丁寧に書くこと。「この声が枯れるまで歌い続けて」、誰かの「苦悩」「悲しみ」に届いて、そして晴らせればいい。

そんな思いでこれからもボクはこのノートを書き綴りたい。誰を救えるか、わからない。
もしかしたらボクが書いても、本当に届けたい「君」の悲しみを晴らすどころか、届かないかもしれない。でもいい。

もっともがいて、何としてもなにか届けようと思う。そして最後には、「君の悲しみを晴らせればいい」。

そんなボクでありたいし、このノートはそんな「ボクノート」にしたい。

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