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渇き

時間がない、と感じるときは、余裕がない、という状態であり、それは渇きに似ていて、身体は喫茶店や本屋を求める。
夕方、プラットホームで帰りの電車を待ちながら、家までの時間を計り、その間にしなくてはならないいくつかの用事を反芻すると、喫茶店と本屋の割り込む余地はどこにもないのだけれど、それは渇きに似ているから、そう簡単に諦めることができない。
下北沢で降りれば、三軒茶屋に回れば、青山に戻ればあの店があると考え、東京駅の傍にそびえる丸善書店や、神保町の懐深くにある東京書店や、本の匂いの芳しいくつかの古本屋を脳内に陳列して、慎重に検討する。
来た電車を一本見逃す。また来た電車を見送る。そうこうしているうちにいよいよ時間が無くなり、到着した電車に、粗っぽく回収される。

本すらひらけない混みあう電車の中で足を踏ん張り、肘に弾かれたり肩の隙間に収まったりしながら、それでもなお、好きな喫茶店と本屋のことを考える。「好きな喫茶店」や「好きな本屋」ではなく、わたしの好きな「喫茶店」と「本屋」のことを。

隔世の感がある喫茶店や、住宅街にぽつんと立つ喫茶店を見つけると、迷わず扉を押す。期待を裏切られることはまずない。

日焼けした布張りの椅子に身を沈め、色とりどりのランドセルの先端が窓を横切るのを眺めながら、そっと日常を手放す。仕事上の焦りと懊悩を忘れ、今夜の献立が未定であることを忘れ、明日の通院にまつわる不安を忘れる。
珈琲が目の前に現れ、爽やかな香りが鼻腔に到達すると、手にした本を開く。そのまま読みふけることもあるが、大概は数ページも進まないうちに表紙を閉じる。
隣の二人組の、胡桃ボタンとボタンホールのようにぴったり息の合った会話に耳を傾け、斜向かいのダンディーの、乾いた指先が几帳面に折り畳んだ新聞を優雅にめくるさまに見惚れる。
店主はすこし慇懃だが、けっして無礼ではない。静かにつり銭を私の手のひらに置きながら、皴の刻まれた目の端でそっと微笑む。

ときどきその店の扉を押すようになる。
室内の温度はつねに適温で、明るさと暗さのコントラストも丁度よく、とろりとした珈琲はカップの内側で凪いでいる。
日焼けした清潔な椅子はたいてい空いていて、子どもたちの嬌声は遠くで打ち上げられる夏の花火のようだ。西日を受けた窓際の一輪挿しが、金のスポットライトを浴びた女優のように震える。
店主は慇懃を解き、親しげに給仕するようになる。毎度どうも、と歌うように声をかけ、お気をつけて、と祈るように送り出す。

大切なのは、それ以上たがいに踏み込まないことだ。主は沈黙を守り、客はそれぞれの時間を尊重する。わたしは永遠に、珈琲を飲みに来る、<どこかの誰か>であり、<親しいあなた>にはならない。

早起きの得になるという、三文の意味は分からなかったが、早起きは得なのだと、6歳でわたしは知った。
夏休みになると、兄と連れ立って、わたしの生まれた街に住む祖父母の家に毎日通った。帰るのが面倒、という使い古しの言い訳を擦り切れるまで使って、そのまま泊まることも多かった。そして、寝坊の兄を置き去りにして、早起きが得意なわたしだけ、市場にむかう小型トラックの、助手席の人になるのだった。

市場での競りが終わり、トラックに買ったものを運び込むと、今度は場外喫茶店のカウンターの人になる。そして、祖父が珈琲を飲む隣で、知れば母が卒倒するであろう、蛍光ブルーのクリームソーダや、どす黒いコーラフロートなどを、朝の8時から大切に飲んだ。ああ、やっぱり早起きはサンモンの得。

何より嬉しかったのは、店の主が、カウンターに座る小さなわたしを、けっして子ども扱いしないことだった。氷の量はいかがですか。スプーンをおつけいたしましょうか。大人の女性と同じように恭しく扱われたわたしは、スカートの端をなおして品よくうなずいたり、淑女のように微笑んでみたりする。

毎回、祖父の珈琲にクリームと砂糖を入れる係をわたしは買って出た。白く儚い線の渦まく漆黒の液体を、スプーンでかちゃかちゃかき混ぜるのが密かな楽しみだったから。
こげ茶色になったそれを、いかにも美味しそうに啜るさまを食い入るように見つめるわたしに、ある日祖父が、ちょっと飲んでみる?と悪戯っ子のように尋ねる。大人の飲み物を飲むわたし、というシチュエーションにうっとりして、躊躇なくそれをのどに流し込んだ瞬間、大人の飲み物を飲むにはまだ早すぎた少女は、カウンターのむこうにたたずむ店の主に向かい、甘くて苦い液体を勢いよく噴射した。

ときどき、母と帰りたくなることがあった。
友だちと別れ、電車を乗り換えて郊外の駅まで行き、大通りを進んで、うす暗いわき道を急ぐ。
蔦の絡まる廃屋のような外観をしたその店の扉は、来るものを拒むかのようにおそろしく重たかった。背中に全体重をかけて押しあけると、じゃらんじゃらんと容赦なくベルが鳴り響き、いらっしゃい、と雷のような声がとどろき渡る。その店の辞書にはきっと、「こっそり」がないのだろう。

母の職場に隣接したその店は、50代の有能な女性が、母親に戻る前にひと息つく店だった。
その時間にそこに行けば、いつもと違う横顔を見せる母に間違いなく会うことができる。巻き上げたギターの弦のような、はりつめたものだけの持つ凛とした美しさ。
 
左手のカウンターには、いつもの人たちが紫煙をくゆらせている。
曖昧に黙礼し、高校の通学鞄を抱いて、奥のテーブル席に座る。それから、いぶし銀のサボワールや、キッチュなセルロイド人形、ワイルドな京劇のお面の視線を背中に感じながら、天井まで伸びる本棚の前に立った。セピア色の「SWITCH」や、端の丸まった沢木耕太郎の「深夜特急」を、教科書のように繰り返し読んだ。

眼光の鋭いオーナーと言葉を交わすことはなかった。まわりの客が美味しそうに食べている、焼うどんや醤油スパゲッティにも大いにそそられたが、珈琲お願いします、と言うのが精一杯だった。
何度通っても店の雰囲気に溶け込むことができないのに、そこに自分がいるということが妙に嬉しかった。肩で戸を押して入ってくる母が、あら?という顔をするのを見るのも好きだった。
だが、何よりも好きだったのは、母が来るまでの時間だったのかもしれない。素っ気なく受け入れられ、なんら問いただされることもなく、わたしの好きに任せて、放っておかれることの心地よさ。

母の珈琲が終わると、私たちは席を立つ。ありがとうございました、という雷のような声が、背後でとどろき渡る。

逢魔が時に街に浮かぶ、黄金色の灯りに炙り出された本屋ほど美しいものはない。誘蛾灯に手繰り寄せられる虫のように店に近づき、本棚と、本棚を見上げる人びとを、硝子戸越しに眺める。

足を踏み入れると、紙の放つ芳ばしい香りが迎え入れてくれる。そして、数多の本の背表紙を撫でながら、本棚の周りを魚のように回遊する人の群れ。
私も魚になって群れを追いかけ、本棚から本棚へとゆるやかに泳ぎだす。

店の主は、その昏い海を守護する灯台のようだ。視線を落とし作業する手を止めて、ときどきそっと目を上げる。やってきた魚たちが暗礁に乗り上げないよう、思索の先を光で照らすように。
みんな穏やかに泳いでいると嬉しい。ときどきページをめくる気配だけがあればなおよい。沈黙の対話がそこかしこで進んでいる。本に閉じ込められた無数の言葉に耳を澄ます。人差し指をかける背表紙に注がれる視線を感じる。話したことのない人の抱える本に、その人のなにかを知る。

わたしも本を抱いてレジの前に立ち、お金を払って外に出る。
海を泳いだ後は少しけだるい。眠る前の30分、今夜も本に溺れよう。

父のいない書斎が好きだった。
本棚には源氏物語がずらりとならび、内村鑑三信仰著作全集がつづき、哲学書がその横にたたずみ、下段にはサザエさんの全巻がつまっていた。父の本棚は、科学者でありながら無類の文学好きで、宗教に彷徨い、哲学に向き合う、ユーモアに長けた父という人を、饒舌に語っていた。

お気に入りの書店は、日本橋の丸善書店で、手にする本にはいつも丸善の紙カバーがかかっていた。
丸善を経由してくるときは、いつも定時に帰ってくる父が、ほんの少し遅くなる。なんの本を買ったの?と訊くと、カバーを外して見せてくれる。わたしの視線が剃れると、本にカバーをかけ直す。なんでカバーをかけるの?と畳みかけると、丸善にね、お店のことを電車で宣伝してくださいって頼まれているんだ、と言うのだった。

絵本から少年少女文学シリーズに移行したばかりのわたしの目に、折り目正しいそのカバーは眩しかった。表紙のわからない秘匿感や、表紙を守る手間暇などが、手垢がついて草臥れた本をひらくわたしの、くすぶる羨望を煽りたてる。
ある日、父の読み終わった本からカバーを引きはがし、わたしの本たちにかけ替えてみる。角が合わない。翌日、父の読み終わっていない本のカバーをはがして拡げ、もう一枚のカバーとテープでつなぎ合わせる。いい感じだ。罪悪感とは、手を動かすうちに霧となって消えるものなのだろうか。気づけば父の読みさしの本はあらかた裸になっている。
父はそれを咎めなかった。ただ、きみも丸善から店の宣伝してくれって頼まれたのかい?とだけ言って、朗らかに笑った。

今も東京丸の内にある丸善にときどき行く。ほかの書店ではまず頼まないのに、丸善に限っては、カバーかけを申し出られると断れない。帰りの電車で、きれいに包まれたその本を開くとき、お父さん、ほら、丸善の宣伝をしているよ、と心の中で思う。

保育園からの帰り道に、「元我堂」という古本屋があった。その向かいの豆腐屋で買い物をするとき、娘はその古本屋で待っていた。正確に言うと、困らせていた。日によって変わる本屋の主を。

もとより本好きではあったものの、その店の棚に置いてある、ブルース・リーのフィギュアが、娘の最大の関心事だった。もげて足元におかれている痛々しい右腕のことが、心配でならない。
ねえ、あのお人形さん、お手手が痛そうだよ。ねえ、あのお人形さん、病院に連れて行かなくて大丈夫?ねえ、あのお人形さん、お手手、治らないの?
お店の方は、さぞかし閉口したに違いない。

ときどき絵本を買って、おまけにチュッパチャプスをいただく。それを舐めながら歩く帰り道、ねえ、あのお人形さん、お手手、痛いだろうねえ、と言ってはため息をつき、心底悲しそうな顔をするのだった。

ある日、擦りガラスの引き戸から店内を覗き込むと、店の主が嬉しそうに手招きをする。娘の背中を押して店の中に入ると、白いテープで貼って接合されたブルース・リーの腕に指をさす。そして、よかったね、人形のお医者さんがやっと治してくれたんだよ、と胸を張る。
納得のいかない顔をした娘は、人形のお医者さんはどこにいるの?と、追及の手をゆるめない。一瞬困惑した顔をした主はすぐに澄まし顔になり、おもむろに壁にかけられたアフリカのお面を指さして、あの人だよ。だけど内緒だよ。お医者さんであることがばれたら、この店に病気の人形たちが押し寄せて、本たちが追い出されちゃうからね。
娘は息をのみ、神妙な顔をしてうなずく。

本屋の主と秘密を共有した娘は、18歳になった今も、本と本屋が好きだ。

自己免疫疾患の全身性エリテマトーデスを発症して4年半がたち、徐々に病態が深刻になってきた。疾患の憎悪につながる紫外線や怪我を避け、感染症に気をつけるなど、多くの制限を守り、多感な10代を耐えて過ごしてきたのに、進行は止まらない。自分の病気への恨みつらみは、自分という存在への暗い倦みにつながり、彼女はとうとう通院を拒むようになった。行きたくない、と。

娘の代わりに病院に行き、主治医と長く話して、薬を受け取って帰る。
バスを降り、いつも娘と過ごすカフェの前に立つ。室内は暗く、森閑としている。コロナ感染症拡大のため、しばらく休みます、と書かれた張り紙を読む。
はす向かいの、いつも娘と本を探す古い書店を眺める。人影はなく、シャッターが半分閉まっている。コロナ感染症拡大のため、時間を短縮して営業しています、と書かれた張り紙を読む。
18時。空が燃え落ちていく。

体中の骨が軋む。心の洞に風が渡る。体の強張りを緩めなければ。心の空虚を満たさなければ。そして、物語の油と珈琲の水を、わたしの内部に注がなければ。でも、いったいどうやったら潤せるというのだろう?
石鹸で洗いすぎた手が痛い。マスクの奥の喉がカラカラに渇いている。

駅のプラットホームにある自動販売機で缶コーヒーのボタンを押し、転がり出た缶コーヒーを取り出す。温かいほうにすればよかった。冷えたアルミ缶を両手で覆っているうちに、冷たい指先がさらに冷たくなる。黒い液体を、喉をひらいて一気に流し込む。

ほんとうに乾いているとき、そう簡単に人は潤うことができない。喉の渇きは癒せても、体は飲むほどに干乾びていく。

来た電車を一本見逃す。また来た電車を見送る。
そうこうしているうちにいよいよ時間が無くなり、到着した電車に、涙ごと回収される。

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