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最後になるかもしれない晩餐

ダイニングで角ばった白い身を震わせ、ゼエゼエ喘ぎながら冷たい息を吐く古いクーラーに、燃える台所の冷却まで期待することはできない。額に汗を滲ませ、銀の雪平鍋のなかでうごめく飴色のカレイの煮付を見つめながら、暑いね、とあなたに向かって呟く。
答えが返ってこないことにはもう慣れている。

冷えたテーブルにパソコンをおき、YouTubeの赤い矢印を次々と押しながら、ああ、これ最高、と嘆息する娘の声は、風の渡る軒先の南部風鈴のように涼やかで、私のまつげに絡みついた重たい湯気を払う。
もうすぐよ、と彼女に声をかける。了解、と言って彼女は立ち上がる。

台所の温度計は35度を指している。軽いめまいに踵が浮き、急いで足の指に力をこめる。火を止めて、ほろほろと崩れそうになカレイを慎重にお皿に移す。味噌汁の琺瑯鍋をコンロに置き、引出しから木のしゃもじを取りだす。

夏の料理は苦痛ね、と額の汗を指先で拭いながら私が嘆いてみせたとき、あなたは4寸玉の花火のように豪快に笑ったのだった。そして、これが最後の晩餐なら暑いもへったくれもないだろうよ、威勢よくで言ってのけると、私の手から奪いとった中華鍋を大きく振った、あの夏。
あれは回鍋肉だったかな、と考える。

銀のラップトップを抱え上げながら、
─ お皿、運ぼうか?
と娘が訊く。

あなたの最後の晩餐を、私は知らない。退院を目前に控えたあなたが、義兄の連絡を受け、外出許可を取って実家に泊まったあの夜、あなたは義母と義兄と同じテーブルを囲み、いったい何を食べたのだろうか。あとにつづく長い、気づまりな話を、有り体に言うならば説教を、二人から代わる代わる受けたあなたが、おそらく眠れはしなかったことは容易に想像できる。なぜなら、私あてに送られてきた最後のメールの到着時刻は午前3時10分、そこに書かれていたのは「僕のすべきことは社会復帰し、必死に働いて家族を養うことだそうだ。できるのか?」だったから。翌朝、朝食も食べずに布団に包まるつづけるあなたを置いて買い物に出かけた義母が、「ごはん食べた?何か買って帰ろうか?」と、11時に送ったメールをあなたは見たのか見なかったのか、刑事さんから返された彼の携帯電話のごみ箱に、ひっそりとそのメッセージが残されていた。

お皿の上のカレイを小指の爪でつつきながら、唐突に彼女が訊く。

─ もしさ、もうすぐ死ぬ運命なら、お母さん、なに食べたい?


食べることが好きだった。たとえ生活がたいへんでも食費だけは惜しんじゃいけない、と両親に言い聞かされて上京した母は、山のように料理をしては、私たち兄妹に食べさせた。記憶の中で台所に立つ母は、いつも楽しそうに料理をしている。楽しい気持ちは伝わる─ なぜなら、私にとってダイニングは楽しい場所で、食べることは楽しいことだったから。
大学生になると、外食が楽しくなる。SNS未満の社会に生きていた私は、雑誌を眺め、うわさ話を聞き、目指す店に足を運んだ。写真という記録がないぶん、訪れた店の記憶は褪せない。六本木のホブソンズ。神保町のいもや。下北沢のスコット。浅草の神谷バー。
留学中も、海外出張つづきの就職中も、時間を作っては現地の店に向かった。ビルマのモヒンガー。エチオピアのフフ。ネパールのモモ。中国の火鍋。ベトナムのフォー。カンボジアのクイテイオー。沖縄のボロボロジューシー。アイルランドのブラッド・プティング。
〈美味しい〉という簡潔な言葉は、湿った薪に火を熾すマッチ棒のようだ。私は細い棒をシュッと擦り、その場の人たちの心を灯していく。焔のようにかがやく顔に私の頬もゆるみ、美味しい、美味しいを繰り返す。

余命を憂うような病にかかったあたりから、食べ物への熱いまなざしが冷えていく。生命への飽くなき執着が、食欲なるものを司っていたのだろうか。死神の顔に魅せられながら、人はきっと死ぬのだ、と観念した私の耳に、食べることは生きること、という母の念仏は届かなかった。
それでも、私は食べようとした。落ち葉のように髪が抜け、枯れ木のように体は乾きながらもなお。それは抱える躰への執着ではなく、他者の命に対する執念に近かった。もっと生きたいわけではない。残して死ねない人がいる。

それは今でも変わらない。貪欲さとは袂を分かちながら、生きるに必要なだけは食べる。そんな私が、人生の崖っぷちに立ちながら、最後の晩餐を希い、何かを食べたいと思うだろうか。

─ そうだなあ。最後に食べたいものは特にないけれど、最後に一緒に食べたい人はいるかなあ。

1本逃しても、5分と待たずに次がやって来る渋谷発のバスに乗り、夕方のラッシュで騒然とする道玄坂を上っていく。ぐるぐる巻きにしたマフラーを緩めては巻きなおし、両手の手袋を脱いではまた右手から嵌める。厚い窓の向こうでは、光るものが舞いながら落ちていく─ 初雪。乗客たちが雪への切ない思いを次々と吐露する中で、私は相変わらず内側に沈んだまま、世界の様子に関心を持てずにいる。

花は買わなかった。差し入れも用意しなかった。ただ、彼を世話する叔母のために、デパートの食品売り場で紅茶を二缶買った。沈鬱な表情の私に何かを感じたのか、気を利かせた売り場の方が綺麗に包装してくださったマリアージュの紅茶を、看病に疲れた叔母は気に入るだろうか。

古い病院のエントランスホールは天井が低く、電灯も控えめで、受付の職員はおろか、名を記入する面会カードさえもぐっと涙をこらえているように見える。エレベーターで上昇しながら、これから舞台に出る俳優のように暗記した台詞を脳内で繰り返す。今日は寒いよ。(とうとう雪が降ってきたよ、と続けようか。)思ったより元気そう。(思ったより悪そうだったら、黙って微笑もう。)父と母が来れなくてごめんなさい。(別れの覚悟ができずに来れなかった、とは言うまい。)
ガタンと左右に揺れて、軋みながらと鈍色の扉が開く。正面にかかるぽかんとした顔の時計の針が、午後5時を指している。

暗い廊下を歩き、808号室の前で直立する。ネームプレートを確認しながらもう一度台詞をさらい、特に乱れてもいない息を整えてから、不動を崩し、忍び足で病室に入る。
4人部屋の右の並び、廊下寄りのベッドで叔父は眠っている。患者は叔父一人で、間が悪いことに付き添いの叔母もいない。私は空っぽの椅子に浅く座り、座ると同時に迷い始める。起こすか、このまま帰るか。帰ったら、もう会えないかもしれない。起こしたら、痛みに苦しみだすのではないか。先ずは、ナースステーションで今日の叔父の様子を訊いてみよう。
腰を浮かせると、叔父が薄目を開ける。

─今さ、気仙沼で、海鮮丼を食べてたんだよ。それからさ、沼津港であがったばかりの烏賊を食べたんだ。いやあ、うまかったよ。それで、小倉のおばちゃんちで河豚の天ぷら食べてね。そのあと函館で雲丹丼をね。あれも美味しかったねえ。で、ご馳走をさ、並べておいた。お酒の用意もできてるよ。芋焼酎。あれ?兄さんはまだ?

肝臓がんの末期にある叔父を先週見舞ったとき、冷蔵庫に死体が詰まっているから警察を呼べ、と彼は叫んだ。カーテンの上に裸足の子供が歩いているから早く捉まえろ、とも。今日は表情からして違う。落ちくぼんだ眼には、柔らかな光があり、蝋人形のような皮膚の下から、流れる血潮さえ透けて見える。

叔父は幻であれ、最後の晩餐を心ゆくまで楽しんでいるようだった。もはや胃は何も受けつけはしないのに、食いしん坊の叔父が歩いた土地の、選りすぐりの料理の数々がおそらく、彼の最後のテーブルに所狭しと並んでいる。私は相槌を打ちながら、彼が別れの席で酒を酌み交わしたかったひと、私の父の代わりに、叔父の最後の晩餐を見守る。
やがて言葉が消え、叔父の躯だけが残る。浅い呼吸を数え、彼が眠ったことを確認する。すでにこの世の港を離れ、彼岸を目指しているかのような眠り。

叔母あてのメモと紅茶を置いて、私は部屋をあとにする。荷物は軽くなったのに、鉛のように重たくなった心を、剥き出しのまま引きずるようにして。

娘は訝る。

─ 食べたいものはないの?好きなお菓子とか、お寿司とか?
─ これまでにもう十分食べたから、いい。


99歳で入院したとき、祖母は覚悟していたのだと思う。好きなものに囲まれた家にも、手入れを怠らなかった庭にも、謳歌していた人生そのものにも、二度と戻れないということを。
肺がんが転移して、大腸がんにも蝕まれていた体は、あらゆる食べ物を拒んだ。しかし、食への強い執着は、体の激しい拒絶にあっても、そう簡単には屈しない。
東京で生まれ育った彼女は、自他共に認めるモダンガールで、老いてもそれは変わらなかった。装って銀座をあるく。贔屓の鰻屋と寿司屋の暖簾をくぐる。デパートを冷やかし、画廊を回遊し、珈琲を寵愛した。資生堂パーラーで過ごす3時がことのほか好きで、お土産はいつも小さなチーズケーキだった。
身動きのできない祖母に代わり、私は黄昏の街を走った。木村屋のアンパン。虎屋の羊羹。中村屋の月餅。千駄木の羽二重団子。千疋屋のゼリー。買い求めたものを手に提げ、夜の病室に着くと、夕食を済ませたばかりの祖母のおなかは空いていない。「あした楽しみに食べるから冷蔵庫に入れておいて」と頼まれて、ベッドわきの小型冷蔵庫を開ける。金の光の中で、一昨日しまったシュークリームと、昨日のカスタードプリンが、手つかずのまま鎮まっている。

ひと月後、彼女は緩和ケア病棟に移る。体の現実に食欲は失せ、〈食べたいもの〉は消えた。それでも、降伏宣言はしない。「これまでもう十分食べたから」という、もっともらしい理由を言い立てる。そうして、食べものの代わりに、語れる限りの食べものの記憶を、私の耳にむかって語りはじめる。

今思えば、それが彼女の最後の晩餐だった。私は彼女と一緒に、昭和のはじめを、戦後の東京を、平成の銀座をそぞろ歩く。暖簾を押し、給仕に案内をされ、カウンターで寿司を握る美しい指を、彼女と並んで見つめる。小さなお猪口をカチンと合わせ、同じ形の目で笑い合う。

彼女の認知は、最後の2週間まで鮮明だった。ずぶずぶと昏睡の沼に沈み、真夏なのにカイロで足を温める日々がつづいて、嵐のような夜に、彼女はひっそりと去った。
別れの日、銀座の木村屋でアンパンをいくつも買い求めた私は、食べ物は入れないでくださいと事前に注意を受けていたにもかかわらず、黙ってそれを棺に入れた。葬儀社の人は、何も咎めなかった。

娘は、防波堤に似ている。内側で疾る水を、溢れることのないよう堰き止めてはいて、容易に決壊しない。しかし、ときどき水は堰を割る。それは、制御を越えた水(本能)の力かもしれないし、抑え込もうとする堤(理性)の脆さかもしれない。

─ でもね、最後に食べたいものはあるんじゃない?最後に行きたいところに、最後に行きたい人と行って、最後に食べたいものを食べてよ。
─ 何を、誰とどこで食べればいいの?
─ ふざけないで。もっとちゃんと考えて欲しい。

私は、レオナルド・ダヴィンチの『最後の晩餐』を脳裏に思い浮かべる。

「このなかに私を裏切る者がいる」と語り、来る運命を静かに受容しようとするキリスト。彼とは対照的に、驚愕と動揺をあらわにする十二使徒。悲しみに沈む者、われを忘れて叫ぶ者、問いただすように彼を見つめる者。
その中に、心当たりのある者がいる。私は、ユダを見つめる。ユダは、私を見つめ返す。私のようになってはいけない、とその目は語る。

それから、私はあなたに尋ねる。あなたは最後に何を食べたの?それは楽しい時間だった?
透明な顔の中にある透明な目を細めながら、透明のあなたは何も言わない。そして透明な口をひらいてあなたはたしかに言う ─ 最後の晩餐は好きな人と、好きな料理を、心ゆくまで楽しめるといいね。

命の変化は速やかだ。
命の変化は瞬間だ。
夕餉の席についていても命は尽きるではないか。

(ジョーン・ディディオン『悲しみにある者』)

─ そうだね、何でもない食事を、家族と、家で食べたいな。今日みたいに。
─ ふーん。けっこう地味だね。

炊き立てのごはんに、茄子と玉ねぎの味噌汁。カレイの煮つけと、玉蜀黍と海老のしんじょう。枝豆に、湯豆腐。小松菜の胡麻和えに、胡瓜の糠漬け。涼しいダイニングのテーブルに、柔らかな湯気をたてた料理が並ぶ。

母と娘が椅子を引く。私が席に着く。あなたが踵を返す。そうして、今日を生きている私たちの、最後の晩餐になるかもしれない夕食が始まる。

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