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むしろ言葉はあり過ぎる

宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。イサベルはまずまちがいなく、昇天してどこかいい場所に行ったわけではないだろうーイサベルにとって、テリの腕の中、エラの隣、私の腕の中よりいい場所なんてどこにもなかった。イサベルがいなくなって、テリと私は持って行き場のない愛の大洋に取り残されてしまった。

アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』所収
『アクアリウム』抜粋

病気が個性という考え方は押しつけで、自分の差別意識を隠しもしないで多様性に理解があるような風を吹かせる人の常套句、といつにない剣幕で娘がまくしたてたのは、難病を持ちながら歌手を目指すあなたの話を聞きたいです、という唐突な申し出がSNS経由で到着したときだった。
液晶画面に並ぶ罪のない文字に向かって、「絶対に嫌です」と彼女は言い放った。苛立ちながらギターのネックをぐいっとつかみ、しばらくそれを爪弾きながら自分を宥め、燃え上がった焔がようやく鎮火の兆しをみせると、爪の角をやすりで整え、ついでにさっきの言葉の角も丸くして、「申し訳ありませんがお断りします」と書き、黙って送信ボタンを押した。

病気になってよかったと思ったことは一度もない。生きることの素晴らしさをあらためて知るということもなかったし、大きなものに生かされているという謙虚な思いも、他者からの配慮や親切に感じ入ることもなかった。もっとも、そうした密やかな心の輝きはあったのに、後の日の圧倒的な出来事が重たい刷毛となって、それをべったりとした鈍色に塗り替えてしまったのかもしれない。なぜなら、私が癌を発症したために夫の鬱病が悪化の一途を辿ったと、今の私が信じて疑わないからだ。その一途の先には情け容赦のない死が待ち構えていていたことを、今となって知ってしまったからだ。
ましてや、娘が病気になってよかったと思えることなどあるはずがない。若干12歳で、自己免疫システムのエラーが生涯その身体を蝕み、たとえ今日が穏やかでも明日は嵐になるかもしれないという予測不能かつ波乱万丈な人生を生きることを本人の同意なく約束された子の隣で、「病気になってよかったです」と微笑むような親がどこにいるのだろうか。
私は娘を見る。あたかも、灯台から遠く離れた海を走行する一艘の船を目で追うように。そして、その孤独を喩えるための言葉を私は持っていない、と思う。

昨年読んだ印象ぶかい本の中で、ただ一冊を選ぶとしたら、躊躇することなくアレクサンダル・ヘモンの『私の人生の本』を選ぶ。とまれ、その理由を詳らかにするのはかなり難しい。
長いあいだヘモンを敬愛し、翻訳の有り無しにかかわらず発表された文章のほぼすべてを意欲的に読んできた、という経緯も排除できないし、彼の著書をひとり翻訳されてきた岩本正恵さんが早逝され、その仕事を継ぐ方の登場を半ば諦めていた心が、思わず小躍りする幸福な裏切り、ということもあるだろう。いずれにせよ、いずれでもないにせよ、秋草俊一郎さんの堅実な翻訳により、『The Book of My Lives』が『私の人生の本』というタイトルとなって出版されたこの本は、出版日の正にその日に手に入れたいと切望するほど楽しみにしていた─サンタクロースからのプレゼントを待ちきれないクリスマスの子どものように─私の、これ以上ないほどに高まっていた期待をも凌駕するほど素晴らしい短編集だった。とはいえ、時期を同じくして始まることになった、胸の潰れるような喪失が続くその後の約3ヶ月間、この本を片時も手離すことができなくなるとは想像すらしなかった。頼るものは神しかいない人の、手垢にまみれたバイブルのようになるとは。

2021年9月、癌で知人が逝った。病気が判って3か月、面会の許されないあの時期が、20年以上親しくしてきた彼を5分見舞うことさえ私に許さなかった。時を開けず、在留資格の問題を抱えたクライアントが2人逝った。1人は夏に猛威をふるった感染症に捉えられ、発症わずか10日で亡くなり、もう1人は難民認定申請、その異議申立てのいずれも却下される過程で心身を病んでいた方だった。どちらも40歳代で、妻と、まだ幼い子どもたちがいた。10月、結婚して間もない30代の方の事故死を知り、11月、夏に逝去されていた20代の方のご家族より喪中葉書を受け取った。
仕事は忙しく、日ごと幼くなっていく母の世話もますます増えていく中で、私という虚弱な木の枝から言葉の葉という葉が残らず落ち─紅葉を待つことなく、まだ瑞々しい青のままもぎ取られるような猶予のない性急さで─吹き荒ぶ風に飛ばされ、ついに視界から消滅する、言うなれば動と静の入り乱れる奇妙な感覚にだらだらと囚われつづけた。お別れの会に重い足を運び、唇を噛んで手を合わせた。家族を亡くした方の自宅にうかがい、伏目で今後の相談に乗った。事故死された方の労災申請を請け負い、彼の遺品を祖国の妻にお返した。そして月曜日の花屋の開店を待ち、新鮮なお花をご家族に送った─花を送ることしかできない私の弱さをお許しください、と書くのがやっとの短い手紙を別途送って。
12月、以前ともに暮らしていた、かつて娘であった人の重篤を知らされた。彼女は私の娘より1歳年上の、死んだ夫の実子で、2人は血の繋がりなど笑い飛ばすようにたいそう仲のよい、誰からも愛される最高の姉妹だった。彼女は生きている。でも、もう元の彼女には戻れはしないだろう。もしかして、彼女自身にすら戻れないかもしれない。

アレクサンダル・ヘモンの本の最後に置かれた『アクアリウム』という短編は、著者の1歳の娘イサベラが、症例のきわめて少ない腫瘍の発症から亡くなるまでの半年を綴ったものだ。その中に、こんなくだりがある。

ある日の早朝、車を病院に走らせていると、いかにも壮健で快活なランナーの一群が目にはいった。フラートン・アヴェニューを、うららかな湖畔にむかって歩を進めているのだ。そのとき、自分がアクアリウムの中にいるという強烈に身体的な感覚に襲われた。私は外を見ているが、外の人々は内側にいる私を見ている(もし気にとめればの話だが)。だが、私たちが生き、呼吸している環境はまったく別物なのだ。イサベルの病気と私たちの苦闘は、外の世界とほとんど関係がなかったし、ましてや何の影響も与えていなかった。
(アレクサンダル・ヘモン『アクアリウム』)

恐怖に対する耐性平均値などこの世にはないし、人と人との不安幅の差を正確に測定する物差しも存在しないが、9年前に夫が死に、つづいて娘が明日の保証がない人生を生きることを余儀なくされてよりこの方、私の、生きている限り避け得ない喪失に対する怯え方や、喪失を得たあとのなすすべのない虚脱感の強さは、たぶん人並み以上であると思う。
失うこと、喪うことを日々怖れながら生きるということは、免疫システムのエラーがため明日いずれの臓器にどんな炎症が起こるかわからない娘の病気とほとんど変わらないメカニズムが、心の内に築かれていることに他ならない。
喪失によって体中に空洞のできた、あたかもスポンジのようにスカスカな身体と、透明な静けさに隙間なく覆われ、小さな悲鳴さえあげることもできなくなった心を抱えて、東京の殺伐とした12月の雑踏を歩きながら、私の不安や喪失感は、外の世界とほとんど関係なく、況してやなにも影響も与えないという現実を、骨の髄までひしひしと感じた。私の困難も、私の懊悩も、それによって数多の言の葉を私が失いつづけようとも、この世界になんら影響を与えないということを。
他者という存在は、どうしてこんなに遠いのだろう。彼らは私が他人と思う以上に他人であり、世界は私の世界の遥か彼方にあるようだった。ならば私は口を引き結び、黙して日々を送ればよいだけだ。喪失により心が洞穴になろうが、喪失の果てに私が消滅しようが、この憤怒と騒乱にあふれた世界がかすかな痛みを感じることなど、未来永劫ないのだから。

同書の「グランドマスターの日々」で、セルビア人勢力に包囲されたサラエヴォから逃れてきた「私」は、ベオグラード生まれのアッシリア人のピーターと、シカゴのとあるカフェで、たびたびチェスに興じる。対局を終えた二人は、家路に向かう途中、さしずめ五分程度の時間で、あわただしく互いの半生を交換する。ピーターの両親は1917年、トルコ政府の迫害から逃れてベオグラードに辿りついた。そこで彼は生まれたが、容赦のない迫害が彼らをひとところに留め置いてはくれず、イラク、イランを経て、アメリカ・シカゴへと押し流したのだ。香水店を営み、いつも強い花の香りをまとって現れるその老人の物語を前に、「私」の心は震える。

ある日、対局するテーブルの隣で、「みたい」という言葉を連発しながら無益な話を続ける二人組の大学生に、突如ピーターは食ってかかる。

「なんだってそんなにペチャクチャしゃべっているんだ!一時間もの間ずっとしゃべっているけど、何にも言わないじゃないか。黙れ!黙れ!」学生は怯えて口をつぐんだ。ピーターの爆発はショックではあったが、私には腑に落ちた。ピーターは言葉の浪費を嘆いただけでなく、言葉を浪費する道徳的退廃を憎んだのだ。流浪の骨が喉に永遠に刺さったままのピーターにとっては、世界中で起こっている無数の惨事を語るための言葉が絶えず不足している最中に、無為なおしゃべりをするのは間違っていたのだ。どうでもいいことなんて、しゃべるより口をつぐんでいたほうがましだ。無為な言葉の猛攻から守らねばならないのは、心の奥底にある静かな場所だった。

もちろん学生たちは、ピーターの内面世界に広がる無限の痛みを理解できなかっただろう。沈黙に対する予防接種を受けていた彼らには、語りえないものにアクセスする術がなかった。私たちはそこにいたのに、向こうには見えていなかったーあたかも私たちが非在で、同時に偏在していたかのように。

(アレクサンダル・ヘモン「グランドマスターの日々」より)

師走の街は、言葉があふれていた。看板が自己主張をし、広告がまばゆく輝き、周囲の会話をなぎ倒すようにして人々は語りつづける。クリスマス・ソング。呼びこみの声。バーゲンの告知。嬌声にかぶせる怒声。土石流のように数多な言葉が私にむかって押し寄せてくる。だが、その朽葉色の泥に心が押し切られることはなかった。心の奥にひろがる静謐な湖面を割る一個の小石の力さえ、その言葉たちは持ちえなかった。

私は、バッグに忍ばせた本のページを頭の指でめくる──「私たちはそこにいたのに、向こうには見えていなかったーあたかも私たちが非在で、同時に偏在していたかのように」。

気がつけば、「言葉がない」という言葉を頻発するようになっていた。実際、すべての葉を落とした私の足元に、1枚の葉影すら見あたらない。吹き飛ばされた葉を探しにいこうとする気概もなく、豊かに葉を茂らせる近くの木から1枚拝借しようという意欲も湧いてこない。喪失に継ぐ喪失が、喪失の淵を埋めようとする、生き延びるために最低限必要な作業を行うスコップすら奪ってしまったのかもしれない、と思う。
だが、私はポケットに手を入れ、何かを探そうとする自分の指の動きを認識する。求めるものは何もないのに、落ち着かない目の動きを感知する。ほんとうに私には言葉がないのだろうか。ほんとうに言葉を必要としないのだろうか。

一番よく耳にした決まり文句は「言葉がない」だった。だが、テリと私にとって言葉がないどころではなかったのだ。私たちの体験を表現できないというのは、まったくのまちがいだった。テリと私には今起っていることを語りあうだけの言葉が山ほどあったし、実際そうしたのだ。ファングサロ医師とルラ石の言葉は常に痛いほど正鵠を射ていたし、言葉がないなんてことはなかった。コミュニケーションに問題があるとすれば、むしろ言葉がありすぎることだった。それは他人に背負わせるには、あまりに重く、特殊に過ぎたのだ。
(アレクサンダル・ヘモン『アクアリウム』

むしろ言葉はあり過ぎるのかもしれない。抱えきれないくらい、手に負えないほどに。
苦難はけっして貴いものではない。喪失は、喪失をもたらしたものでしか埋めることができない。あなたにかける言葉などどこにもない。私はあなたを喪うことなどできはしない。そうした実感と当惑、そして恐怖を言葉にしようとするとき、私は躊躇する。言葉が鋭利になることを、それが誰かに傷を負わせることを、取り返しがつかないほど誰かをふかく刺すことを。誰かに私を背負わせることに、誰かに私を押しつけることに、私が私を押し潰すことに、私は二の足を踏みつづける。でも言葉にしたい。だが言葉が怖い。なのに言葉が遠い。でも言葉はここにある。

私に顔を向けて、娘が、ねえ、と言う。
ー申し訳ありません、なんて書く必要なかったよね?

夜な夜なパソコンを開き、むかし書き散らした文章の削除を繰り返しながら、年の瀬を歩いた。いつか失くしたパズルのピースのような、どこからはぐれたのかわからない言葉の断章たち。次々とdeleteボタンを押し、惰性で叩き消そうとしたある一文を前にして、指の動きが止まる。保存した日を確認する。5年前の今日だ。

溺れそうなときにやってくるのはいつも娘で、泳げるよ、手足を動かして、と声を限りに叫ぶ。私は言われた通りに手足を動かす。次第に浮力を回復し、方向性を取り戻す。だが、岸にかかった深い霧は晴れない。がむしゃらに水を掻き、沈むことに抗い続けて、岸とおぼしき線に向かって泳ぎ続けるだけだ。灯台のような娘の言葉、娘の声をただ頼りにして。

足す言葉も引く言葉もない。上書き保存を選択し、静かにパソコンを閉じる。


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