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家を壊す

平屋の家の修復と増築が決まって、大工さんたちがやってきた。あちらこちらが豪快に破壊され、いたるところで堅牢な足組みが組まれ、そこかしこで青いビニールシートがはためき、菓子折を提げた母がご近所のドアを叩いた。浴室がなくなり、庭の片隅に急ごしらえした露天風呂で、五月の薫風にくすぐられながら沐浴をした。裸電球の下で夕食をとり、お調子者の兄が語る身の毛もよだつ話に泣かされた。くるりとカールした木屑が舞い、くの字型の吸殻が灰皿からあふれ、群青の空に浮かぶ月がいつもより近く感じられた。

二階に子ども部屋を作るんだよ、とメンソールの煙草をもみ消しながら若い大工さんが教えてくれた。チェック柄の学生服を脱ぎすて、紙風船型のズボンに履きかえた、今まで子どもであったことを恥じるような、お世辞にも大人には見えない大工さんに。とうの昔に両親から説明を受けていたにもかかわらず、初めて聞いたみたいに私は驚いてみせた。トナカイの橇を走らせやってきた、サンタ・クロースの優しさにそっと報いるように。

彼らの朝は早かった。急峻な坂をのぼってくるトラックの低い唸り声がすると、私は小学校に行く支度を急いだ。なぜなら、大工さんの出勤時刻は時計の針より正確なのだから。靴を半分履き、ランドセルの中身を上下左右にかき混ぜながら走りだす私に向けて、力強い声援が飛んでくる。車に気をつけろよ。慌てて転ぶなよ。ちゃんと前見ろよ。先生の話をよく聞けよ。彼らが大きく手を振っているのを、私の小さな背中は知っている。

早いのは一年生の下校時間も同じだった。校庭の遊具たちの誘惑を断わり、寄り道への欲望に蓋をすれば、大工さんたちの三時のお八つに間に合った。息を切らせて最後の角を曲がると、玄関の上がり框に座っている大工さんたちのだみ声が聴こえる。それから、ビロードのように滑らかな紫煙の向こうに、緑茶とコーヒーの入った魔法瓶が、いかつい肩を並べているのが見える。大きなお皿には今日も乾きものや甘いものが渦を巻き、小さなお皿には季節の果物が整列しているのだろう。きなこ揚げパンで満たされていたはずの私のお腹は、にわかに背中と親しくなる。

緑茶はずるずると啜り、ぷはあ、と破裂音を立てて飲みくだすのが彼らの流儀だった。くつろぐ人たちの輪の中に入ると、私もその真似をせずにはいられない。緑茶を飲み干し、ぷはあ、と息を吐く。笑ってもらって得意になって、コーヒーに手を出し、ぷっ、と噴く。

木の取り扱いに長けた大工さんたるものは、動物の心をつかむのも上手かった。二匹の成犬は、初めこそ牙を剥いて威嚇していたものの、ほどなく彼らの手に落ちて、電気のこぎりが絶叫しようが、足場を組むための大騒ぎが繰りひろげられようが、頭をさっとひと撫でされれば尻尾をぶんぶん振って、たちまち許してしまうのだった。獣の心を忘れてしまった犬たちに、大工さんは立派な小屋を新築した。森の香りの漂う滑らかな床に、新しい毛布が敷きつめられた。

空を目指して階段が伸びていく。ジャックが出逢った豆の木みたいに。雨あがりの雑草のようなスピードで。
増築された三室のうち、東寄りの部屋が兄の部屋となり、西寄りの部屋が私の部屋になった。二段ベッドはチームを解散し、それぞれの部屋で独立した。境界線のあいまいだった私たちの物は、僕の物、私の物、と線引きされた。
設計図を引いた父は、手先の器用な兄の部屋に大きな机を、本の虫の私の部屋に大きな本棚を設えた。さっそく兄は机の上にレゴブロックをひろげ、カリオストロの城を作りはじめる。私は本棚の前で伸びたり縮んだりして、少年少女世界文学全集を並べていく。何かを所有するということは何かを所有しないということで、所有できないものは所有したくなるのが常だった。兄の部屋に入り浸る私が、兄の机の上でえんえんと絵を描くようになるのも、兄の仲間たちが私の部屋で遊び、本棚に兄の本が忍びこむようになるのも時間の問題だった。

造り始めたものは、必ず造り終えるときがくる。堅牢な足組みがほどかれ、青いビニールシートが折り畳まれると、白い外壁の清潔な家が現れる。新しいベランダで洗濯物が舞い踊り、汚れのない窓ガラスに雨粒が体当たりし、無垢な浴室に石鹸の匂いが染みこんでいく。熱せられた空気が冷め、爽やかな秋風が流れるようになったとき、日焼けした顔をほころばせた棟梁たちと私たちは、夕食を共にした。大人たちが競うように黄金色のビールを注ぎあう傍らで、兄と私はワイングラスに注いでもらった桃色のヤクルトをちびりちびりと飲んだ。母の作った栗ご飯の、釜の底がうっすらと焦げている。栗の数がいつもよりずっと多かった。

外壁を這いあがる蔦の葉が、世界に二つとない文様を描いていく。増築工事から数年後、我らが棟梁が引退の挨拶にやってきた。トラックを背に、「大棟梁改め大統領になりました」と胸を張った。その地位を継承した次男が、「棟梁になりました」と頭を下げた。メンソールの煙草を手放せなかった若い大工さんは、子煩悩の父親になり、新しい棟梁の逞しい右腕に成長していた。長じて人見知りになった私は、逃げ足の早い猫みたいだと笑われて、下を向いた。人に叶わぬ恋をした成犬たちはすでにこの世を去り、その子と孫がおざなりに尻尾を振って、ぐんぐん遠ざかるトラックを見送った。

家庭医というべき医者はいなかったが、彼らこそが私たちの家庭医だった。水が詰まってもペンキが剥げても電気系統トラブルでも彼らはトラックを飛ばしてやってきて、屋根に駆けあがり、然るべきところに差配し、適切な専門医を遣わせて、私たちの生活を守護しつづけた。
本で埋めつくされた父の書斎の壁には、工務店の名前が印字された派手なカレンダーがかけられ、電話帳を出鱈目にひらけば、工務店の電話番号が載ったページが真っ先に現れる。大統領は引退してもしばしば我が家にやってきた。出されたお茶をぷはあ、と飲むと、四方山話にありったけの花を咲かせ、絹糸のごとく細く切られた工芸品のような金平牛蒡を置き土産にして、名残惜しそうに帰っていく。

やがて兄が家を出て、私も続いて家を出る。父が去り、兄は遠くに家を買い、私は大きな海を越える。三本の歯が抜け、咀嚼のうまくいかなくなったあの家を実質的に支えつづけてくれたのは、彼らだった。人と犬の気配が絶えて久しい大きな家に、ほぼひとり残された母の繰り言に彼らは耳を傾け、孤独を不幸に、衰えを悲しみにしない、隅々まで快適なすみかになるよう、細やかに心を遣ってくれた。
手すりに縋って階段をのぼり、段差を消したダイニングを歩き、埋められた掘り炬燵の上に置いたテーブルで悠々と食事をする母は、孤独、という切実な現状や陰鬱な感情とは疎遠のようにみえた。彼らは、家のインフラを整えるばかりでなく、ますます賑やかになる一方の母の庭を整えるために、ホームセンターで肥料を調達し、健やかな苗を買い、無償でその植え替えまでも手伝ってくれる。ほんとうに助かってるのよ、実の子どもたち以上に気が利くよね、と含み笑いを添えた憎まれ口を叩いたあと、ほら、まな板まで作ってくれたのよ、と気の利かない子どもたちに見せびらかせたそれは、控えめにいっても大きすぎて使い勝手が悪そうだった。それでも、贈呈されたことが重要で、その実用性いかんについては何ら関心を示すことのない母のLINEの友だち欄には、大統領と棟梁と棟梁の右腕の名前が、頂点で輝いていた。

時は流れる。
日本に戻って作った家族の、柱のような人が逝って、残された私が家を片づけることになった。すでに娘を連れて、居所を祖母の家に移していたが、服や学用品といった必要最低限のもの以外は、私たちが住んでいた当時のままだった。無人の家に放置されたものたちのために、毎月の賃料をきちんきちんと納める無為の日々、経済的には退去が急務だったが、そのための作業は緩慢だった。何もかもが繭の中からうかがい見る外界に似ている。靄のかかった現実を鮮明にするには、私はあたかも弱った蛹のように無力だった。
それでも、家事を終えると自転車を漕ぎ、毎晩のようにその家の片づけに向かった。深夜のドアは昼間のそれよりもずっと軋んだ音をたてる。動かない空気は日を追うごとに腐葉土の香りに近づいていく。大きな借家で静かに重ねた年月が、ものたちを雑木林の枯れ葉のように厚く積もらせている中を、夜行性の小動物のように私は歩きまわった。かき集めた枯れ葉に火をつければ私もろとも片がつく、と逸る心を抑えこみながら。無数のゴミ袋を膨らませ、NPO法人に彼の蔵書一切を寄付し、うわさを聞きつけたリサイクル業者に対応し、図らずも粗大ごみとなった家具が回収されていくのを見おくる鈍色の一年のあと、いくばくかの品々と、褪せはじめた思い出ばかりが溝川の漂流物のように浮かぶ部屋で、私の手はぴたりと動かなくなった。家を空にするという作業は、続く日々に喜びがあれば活き活きと動くが、行く手に失意と絶望が立ちはだかっているとき、その人の手足を麻痺させる。誰もいない部屋で、日に日に透明になっていく私を見かねた兄が棟梁に連絡を入れたのはある年の一月のこと、すぐに棟梁は私に電話をよこし、手伝いを申し出たのだった。

彼らの朝は相変わらず早かった。退去日の前日、午前八時きっかりに、棟梁は右腕さんを右腕にして、ダンプカーに乗ってやってきた。駐車場にバックで入る車輛の、高らかな警告音を聞いていると、小学生だったころの私が久方ぶりに帰ってくる。
大工さんの来訪は、よりより良き生活への約束だった。槌音は、明日を奏でる音楽だった。手製の露天風呂で、月が痩せたり肥えたりするのを見あげるときに感じる湯のやわらかさ。ビニールシートの屋根の下で、風に髪を梳かれながら兄とトランプに興じるときに覚える解放感。額を合わせて作業の進捗を語りあう両親の、抑えきれない高揚と翳りのないその声色。喜びは、五感を研ぎ、それをもっとも美しい形で保存する。あの日々の先に、この日々があると知らなくてほんとうに良かった、と思う。

実家の敷地以外で彼らに会ったことはなかった。私の海外生活をも挟むと、かれこれ二十数年ぶりの再会だっただろうか。借家の門を越えて玄関に立った彼らの瞳に宿る光が、一瞬ぐらりと揺れたように思えたが、それを単なる私の思いこみにすぎないものにするために、彼らは何も言わなかった。ただ快活に、努めて快活に、長い年月が流れたことを心底驚いてみせたあと、ぜんぜん変わらないですね、と朗らかに言って、模範回答を絵に描いたような笑顔をみせた。慎重に置いたコップが倒れ、中にあるものが知覚されてしまうことを、心の深いところで危惧しているかのように。変わったことは誰よりも知っていたが、反論はしなかった。変わりましたよ、と言ったあとに手渡される亀裂の走った皿のような説明を聞きたい人など誰もいない。そして、受け取ったとたんそれが粉々になることくらい、彼らはじゅうぶん分かっている。
外側の私が軽く相槌を打ったり深く頷くのを、内側の私が嘲りの目で眺めていたように思う。それから、退去に際して原状回復させた、かつては慎ましい花々で満たされていた今やどす黒い庭を、感情の起伏もなく見渡していたかもしれない。そして、棟梁たちが二階にあがり、家具を抱いておりてくるのを、ひび割れるほどに乾いた目でじっと見つめていたのではないか。
棟梁と右腕さんに先に出てもらい、玄関の扉を施錠するまでの、そのほとんど全てのことを私は覚えていない。悲しみもまた、五感を研ぎ澄ますが、保身のために記憶の保存を拒む。この日々の先を生きるのなら、あの日々があったことを逐一覚えていてはならないのだ。

庭の門を閉め、最後にふり返ったその家は、明らかに壊れていた。ダイニングを光の洪水にしていた大きな窓は歪み、茹でたての小豆色だった外壁の塗装は濁った灰色に変わって、わずかに右に傾いているように見えた。家を支えていたのは、柱でも釘でもセメントでもなく、私たちの生活そのものだったのだ、と思う。子どもたちの荒っぽいドアの開閉がたてるさざ波。あたふたと階段を駆け下りるときの彼の歯切れのよい足音。来る日も来る日もオンとオフを繰りかえされて過労気味な電気のストライキ。夜の蒲団の中でゆっくりと育っていく小さな犬の藁のような温もり。朝な夕な台所から生まれる湿り気を帯びた芳ぐわしい匂い。甘い湯気に溶けながら低く流れるやわらかな彼女の鼻歌。その一切が消滅したとき、家は音もなく壊れる。
私が家を壊したのだ。咲き誇る庭の花々を根こそぎにし、綻びすらない蒲団をごみ集積場に捨て、彼の集めたワインを夜の排水口に流し、食べ物に充たされていた冷蔵庫と湯水を湛えていた浴槽を空っぽにし、あらゆる記憶を封じ、すべてを運び出して、扉の鍵を閉めることで。

それは、薄荷色の空が頭上に広がった、凍えるように寒い日だった。荷台に乗せた荷物を、祖母の棲む戸建てに運びいれると、私はオーバーの襟をかき集めながら庭に回り、干からびた手を擦りながら、そのハシバミ色の家を見あげた。風が口笛を高らかに吹き、軽さを増した木の葉が腕をかすめていく。くれないの寒椿が、あまねく蒼白の庭に唯一の血色を与えている。なんて寒いのだろう。でも、娘がいる。そう思うだけで家は暖かそうに見えた。ほぼ寝たきりになった祖母の部屋からラジオの音が漏れてくる。手伝いにきていた兄の気配がする。母が世話をする鍋の匂いを嗅ぐ。ここには生活がある、と思う。

玄関の扉を開け、階段をのぼる。娘の部屋を覗きこみ、嬉々として学習机の引き出しに自分の物を詰めている彼女のきれいな横顔を眺める。大切な物たちの帰還。もうどこにも遣りはしない。ものも、あなたも。
おーい、と棟梁が駐車場から叫ぶ。
Y ちゃん、ダンプカーでドライブに行くか?
行かなーい、と娘が叫び返す。今ね、すごーく忙しいからね。
訊かれてもいない私が、行きます、と声で挙手をする。
行ってらっしゃい。彼女は動かしていた手を止め、まっすぐに私を見て言う。10歳の少女は、分かりすぎるくらい分かっている。

住宅街を抜け、国道を走って、ダンプカーは海を目指す。
フロントガラスのむこうに横たわる夕方の海は、古い硝子のように凪いでいた。水平線は鋭利な刃物のようで、切っ先に船のようなものが光る。悲しみの中に煌めくささやかな恩寵のように。不意に「本当には存在しない終わりを作るために目が引く、あの一本線」と書いた、ラモーナ・オースペルの一文が甦る。
本当には存在しない終わりを作るために、私は家を壊したのだろうか。そうかもしれない。すべてに片をつけることで、追いすがる過去を終わらせなければならなかったのだ、もう一度始めるためには。
真冬の夕陽が焔をあげながら落下し、海を青く焦がして沈む。すぐに私の指先が闇の一部になり、つづいて棟梁と右腕さんの輪郭が黒に飲みこまれて消える。窓越しに見あげた月がいつもより近い。あの時のように。
ゆっくりと世界は灰青色の水となり、両手を広げて優しく私を受けとめる。ほどかれて形を失くした私と、心地よい沈黙の中に身をひたす彼らを乗せたダンプカーは、漆黒を乱す金色の光源となって、仄暗い海岸線の上を走りつづける。


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