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揺れる眺める目を凝らす、ときどき眠って本を読む

生まれ育った下北沢からぐんと西に引っ越して、カブトムシやクワガタムシの飛び交う緑ゆたかな雑木林に、日が落ちるまで潜伏していた9歳と6歳の子どもたちが、密かにあの街を恋しがっていると言ったところで大人たちは信じまい。
だから私たちは決行したのだった。それに至る企みも、二人で交わした約束の痕跡すら見当たらない遠い記憶の始まりに、ゆらり、陽炎のように揺れているのはプラットフォームに立っているひょろりとした兄の姿、そして繋いだその手がかすかに汗ばんでいたという感覚、あるいは錯覚だ。
間違いなくあれは春だった。私の不安な瞳に映る四角い窓が、目に染みるほどのレモン色に染まり、隣に座っていた女の人のスカートの膝に、ツンと口を尖らせた赤いチューリップの花束が載っていたのだから。色彩は心に残る。たとえ輪郭が溶けて無くなってしまったとしても。

3つ上の兄は、どんな小学校にも1人はいそうな、春夏秋冬半袖半ズボンで過ごす、ちょっと変わった少年だった。
喧騒のJR〈吉祥寺駅〉で、乗り換え電車のプラットフォームを探す兄の手をうっかり放してしまった私は、タイツやズボンに入念に覆われた足の行き交う駅構内で、剥き出しの2本足を探してひたすら歩き続けた。私は派手に泣いたに違いない。雛鳥の鳴き声を聴きつけた親鳥よろしく、兄が飛ぶように戻ってきたのだから。喜びは心に残る。その後の展開が苦いものであればなおのこと。

渋谷行きの井の頭線に乗ったのは正解だったが、各駅停車を選ぶほどの正確な知識はあいにく持ち合わせていなかった。
乗った急行電車が〈下北沢駅〉に停車すると、私たちは次の駅で降車すべく、浮かれた心のままに腰を浮かせていたはずだ。しかしその電車が、我らが故郷、〈池ノ上駅〉を速度を上げながら通過すると、兄の顔はくしゃりと歪み、ほどなく潰れた目の端からツツツ、と涙をこぼす。叔父たちが住んでいる〈駒場東大前駅〉をガタンゴトンと通り過ぎ、叔母が一人で住む〈神泉駅〉も減速せずにスイスイと走り続ける苔色の電車の中で、打ちひしがれた兄妹は呼吸を合わせ、膝を揃えて泣き続けた。「どうしたの?」と年配のご婦人に訊かれた瞬間、4つのダムは決壊する。不安な時の優しい一言ほど涙を誘うものはないのだから。

こうして始まった電車とのぎこちない関係は、中学入学ごろから打ち解けたものとなり、ときどき支障をきたしつつも仲たがいすることなく、親交をあたためながら続いていく。

〈なんとなく好き〉な子は、近所の小学校でもごろごろいたが、〈胸が高鳴るほど好き〉な人に出会ったのは、中高一貫の女子校に通う朝の電車の中だった。
不純な動機であれ、あのころほど嫌いな学校に行くのが楽しかったことはない。絡んだ、と思いたくなる視線。待っていた、と信じられるほどの自信。頬を赤らめた、と確信を持てるくらいの盲目。生涯に一度の恋、と物語のヒロインになれるレベルの陶酔。そうした夢心地の2年目に実った恋は、3年目に敢えなく地に落ちる。かつて美しかったあの実が、徐々に腐っていくのを眺める日々に、相応しい一文─

もう愛してくれなくなった恋人は、電車のなかで、人の足を踏んで空嘯(そらうそぶ)いている男のようなものである。

井伏鱒二『木靴の山』

胸のひりつく恋とは違う、心やわらぐ景色もあった。
両耳に銀のイヤホンを挿し、青いボールペンを右手に握り、開いたテキストを見つめながらラジオ英会話に耳を傾けていた人が、遠のく意識とともに光るオールに姿を変え、朝日を受けた背中を輝かせながらそっと舟を漕ぐ姿。
パリッとした朝刊を、指を切るほど鋭利な四角に折りたたみ、肘を拡げ過ぎぬよう細心の注意を払って静かに記事を読み進める人の、隣に座って本をひらくときに感じる、ささやかな称賛にも似た斜め35度の視線。
車輌に迷いこんできた蝶を憐れむかつての少年が、窓を開けたり誘ったりして外に逃そうとする渾身の努力の果て、無事窓を越え、青い空に吸い込まれていく儚い命に向けて、どよめきと拍手の沸き上がる一瞬。

黄肌色の私鉄に別れを告げると、橙色のJRで大学に通い、緑色の電車に乗り換えてアルバイトに通った。深紅の電車で成田空港駅に向かい、ユーロパスを手に欧州各国を旅し、アムトラックに乗ってアメリカ大陸を横断し、シベリア鉄道に乗って錆色のロシアをひた走った。
人の頭と耳しか見えない満員電車で息を詰めながら通勤し、出張先のパラグアイやチリ、ボリビアの車窓から、人っ子ひとり見当たらない雄大な景色に溜め息をついた。旅先のミャンマーやベトナムでも、留学先の中国でもたびたび電車や鉄道に乗って、初めて会うのに懐かしい人たちと、忘れがたい時間を過ごした。つづく留学先のイギリスやアイルランドでも、休みになると改札を潜り抜け、日常を後にした。
帰国すると、ふたたび東京都心の満員電車にもみくちゃにされる人となった。そして、電車で娘と病院に通い、ICUに運ばれた兄を見舞い、電車で夫の墓参りに行く。年に数回、休みを取って電車に乗る。行き先は、秘密だ。

満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責である。

 必ずすいた電車に乗るために採るべき方法はきわめて平凡で簡単である。それはすいた電車の来るまで、気長く待つという方法である。

寺田寅彦『電車の混雑について』抜粋

空いた電車に乗ることの叶わない平日の反動のように、休日は空いた電車に乗る。
早朝、あるいは気怠い正午。氷のように寒い日。茹だるように暑い日。笑顔で旅を誘う広告が四方から詰め寄るプラットフォームにひとり立ち、がらんとした電車が到着すると、扉を越えて、暖かな、あるいは冷えた座席の隅に腰を下ろす。噴き上がる温風が凍る足先を融かし、吹き渡る冷風が蕩けた体を回復させる。誰もいないという状態はもとより期待しない。目の端に入る客が一人か二人くらいであれば満足だ。私はほっと息をつき、電車はそっと身震いをし、そのままかすかに震えながら目的地にむかって走り出す。

中吊り広告には目を遣らず、同乗者の会話には耳を塞ぐ。ただ大きな窓を流れていく山や谷を眺める。そして、それらが千切れて形状をなくし、光の粒子になっていく過程を見つめる。雨が降り出し、粒が壊れて斜線になる。光が差し、窓が磨き抜かれた輝石になる。私はその一切を見つめ、同時に何一つ見ていない。流転するものを目で追う行為ほど、己を見つめる作業に適した手段はないのだから。そして切れ切れの記憶のテープを不器用に繋ぎあわせ、一部損なわれた形のままであれ再生ボタンを押す。かつての私は動き出す。時にぎくしゃくと、時になめらかに。

パラグアイで、1日数本走っているはずの時速20㎞の蒸気機関車が、日が暮れても来なかった。途方に暮れた人影を認め、トラックを停めて顔を出した男性が、今日はきっと来ない、明日まで待つんだ、と諭してくれていると理解するまでさらに半時間要した私たちは、それからいったいどうしたのだろう。

アムトラックの車内売り場で買ったサンドウィッチを齧ったとたん、ハムが粘り、酸っぱい匂いが鼻腔を刺した。取りつく島もなさそうな販売員とたたかえるほどの英語力がまだなく、然るべき抗議を諦めてしまった私の可哀そうな胃腸は、そのあと破綻を余儀なくされたのだろうか。

中国の貴州省を発って四川省を目指す寝台列車の朝まだき、シーツの交換時間だと言いながら叩き起こしにかかった清掃員に対し、日ごろの学習効果を図るべく、持ち合わせの中国語を総動員した私は、舌鋒鋭く切り返せたのだろうか。

向かいが僧侶で隣が親子のメイミョー発の夜行列車で、分けてもらったラペットゥのおいしさは忘れがたいものだった。とまれビルマ語のわからない私はどうやって彼らにその感激を伝えたのだろう。

窓の景色を追いかける何も見ていない目の内側で、見開かれた目は記憶の海を潜行し、置き去りにされた私の行方を追う。記憶の断片は人生のいたるところに散らばっていて、追憶に向かう今の私の手で集められること、正しい場所に嵌めこまれることを望む。
偶然に然るべき意味を与え、災いにも何らかの意義を見出し、私という人間に生きてきたという輪郭をつけるために、そうして私は電車に揺られ続ける。休日の、がらがらの電車の片隅で、乾いた箱に伸ばした手が偶さかつかんだ古い記憶を見つめたり手放したりしながら、ときどきもたれかかってくる眠りに素直に身をゆだね、不意に目覚めて手にした本を読む。

〈多少でも亀裂の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責〉である人生から降りたくても降りることのできない私は、電車に揺られ、眺めて目を凝らし、ときどき眠って逃れ、目覚めたその目を逸らすために本を読んでこの先をなんとか持ちこたえていくしかない。
終点です、と車掌が言う。私は、記憶のぬかるみに埋もれた身体を起こし、ゆっくりと今日のプラットフォームに降り立つ。

深呼吸。まだ、生きている。

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