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行くあてのない、がらんどうの香り

長く、いつ果てるかもわからない日々の一滴がつけた小さな染みがようやく消えようとする午後10時、唐突に娘が言う。

─ 香水がそろそろなくなりそう。誕生日にもらったChloé。

肩まで伸びた髪にアイロンをあてることもなく、辛うじて爪の縁に残っていたベージュのエナメルも剥げ、3パターンの部屋着をとっかえひっかえ着ている彼女が、滑らかなフォルムの香水瓶を右手で掲げ、白熱灯に透かしている。

─ 見て。空っぽ。

それから、ひと月半前ごろ登校用に買ったバッグの値札を切り落とし、ついてしまった紐の折り目を、指で丁寧にのばし始める。金色の灯りの下で、45日分の埃が集合を解き、夏の陽炎のようにゆれる。

外は漆黒の闇に満たされているだろう。冷えた風が草花のあいだを通り抜けているだろう。ひねもす蜜を集めていた働き蜂は眠り、蝶は薄い羽を折りたたんで濃い影となり、色褪せ、形の融けた庭には、ただ噎せ返る香りだけがあるはずだ。
閉塞感、という言葉が背後から忍び寄る。それをどこかに逃そうと、わたしはあたりを見渡す。
窓。

窓を開けると、娘が横に立つ。最後のChloéの香りが、腰に回した手首からそっと羽ばたく。
そして、1㎝だけわたしより背の高い彼女の、生涯忘れることのない横顔が、まだ会ったことのない横顔になる。

─ すごい。香るね。今度はこんな香水がいいな。春の庭に漂う濃い夜の香り。

鼻を動かす彼女の傍らで、わたしは闇に目を向けたまま、昏い庭に沈む見えない花々に向かい、声に出さずにその名を呼ぶ。

(藤、ラベンダー、ローズマリー、タイム、オダマキ、セージ、スミレ、カタバミ、サクラ草、都忘れ、クチナシ、シオン、わすれな草、山吹、サツキ、ツツジ、リンドウ、姫ウツギ、鉄線、ジャスミン、モクレン、柚子の花、野茨、モッコウバラ )

今夜、すべての花を蒸留して、Chloéの瓶に注ぎこむところを想像する。とろりとした滴は、空っぽの硝子の中心をまっすぐに落ち、底を満たして嵩を上げ、やがて七色の海になる。
蓋をしっかり閉じて、輝く海を暗い引出しにしまうあなたの手。その冷たい指先には、濃い春の夜の香りが移っている。

檜の箪笥の引出しに、小さなわたしの手が伸びる。

Geranin─Chane─Hermès─Calvin Klein─Dior─Valentino,

四角い箱の輪郭を指でなぞり、そこに印字されたローマ字を、呪文を唱えるようにしてわたしは読みあげた。母に教えてもらったとおりに。野に咲く花の名前のように。甘美な憧れを込めて。
そして、それがブランドの名前ということも知らず、私が食べるアイスクリームの何十倍も高いことも知らず、香水の何たるかも皆目わからないまま、ただ、微かな不快感と大きな快感を同時に連れてくる得も言われぬ香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。あれはまさしく陶酔というものだった、と一人うなずくのは、それからずっとあとのことだ。

海外出張の多かった父は、彼の地より家族あてにせっせと手紙を書いた。
最後は例外なく、「お土産はなにがいい?」で結ばれている。それなのに、わたしが欲しいものを書いた手紙を出す前に父は帰ってきてしまうのだった。空港免税店で買った香水を、トランクに忍ばせて。

母は、ブローチを胸元に輝かせ、首にスカーフを小粋に巻く人だったが、香水を身にまとうことはなかった。当然、母の箪笥には開封されない香水の箱が増えていく。香水のつけない妻に、香水を贈り続ける夫。けっして断らない母と、なぜか確かめない父。
兄とわたしへのお土産はチョコレートが多かった。欲しかったものは、瓶の中に閉じ込められた琥珀色の香水だったのに。でも、言ったら呆れられるだろう。

暗がりで箪笥を開け閉めしているわたしを、母は目撃していたはずだ。そして、チーズの端をほんの少し齧って逃げるネズミのようだと、笑いを噛み殺していたのかもしれない。
高校進学のお祝いよと言って、箪笥の埋蔵物になりかけていたあの香水の箱を、母はわたしの前にずらりと並べた。お好きなものをどうぞ。

ミツコ・NO. 19・カレーシュ・オピウム・パリ・プワゾン・エタニティ・ルド ジパンシー・カランドル・ミス ディオール、

暗がりより引き上げられ、白日の下に晒された香水たちは、妖艶を過去に置き忘れてきたことを恥じる人のように見えた。長きに渡るやましい思いを払拭してくれるはずの所有権の譲渡は、罪悪感を超えるあの奇妙な昂揚感に、ぬるい水を差す。

母の視線に促されながら、おそるおそる手首にミツコをつけてみる。悪戯っ子のように小首をかしげる母の前で、わたしは腰の引けた犬みたいに鼻先を寄せる。
箪笥の引き出しの中で、不快感と快感を与え続けてきたその香りは、加減がわからず滴るほどにつけてしまった者を嘲笑うように、ただ猛烈な吐き気を、わたしに催させた。

欲しかったものが、欲しかった通りのものになることは、案外稀なのかもしれない。
譲り受けた香水たちは結局、眠るための場所を変えただけで、わたしの箪笥の中に納まることになる。そして、母のやり方を踏襲するかのように、わたしはそれを漫然としまい続けた。身にまとうことは殆どなく、ときどきあたりを見回し、引き出しを開けて、遠い日々を懐かしむためだけの香り。

娘がそれに気がつき、引出しの中を覗いてきたかどうかは知らない。

その場にいた人の顔を失い、交わしたはずの言葉を忘れ、確かにそこに流れていた音が消滅しても、匂いは記憶に残り続ける。
ときどき、目を閉じて記憶の取っ手にひとさし指をかける。永遠の暗がり。あの時間を探りあてる手。長い封印を解く香り。

洗濯機の前でプールバッグを開けた時の、真夏の太陽と鋭い塩素の匂い。
体育館の物置きに乱雑に積み上げられたマットの、健康的な汗の匂い。
バタートーストとお弁当の匂いが競いあう、朝のキッチンの香り。
画家の叔父の部屋を侵食する、木の実と石と油絵具の匂い。
母の裁縫箱のミシン糸と針が醸し出す、デパートの洋服売り場の匂い。
古い木造図書館の、黴と埃と年月が織りなす芳ばしい香り。
材木店のシェパード犬の、大きなあくびと生臭い口の匂い。
七月の雨上がりの庭の、命と腐敗の拮抗する圧倒的な匂い。
途上国援助プログラムで来日した研修員たちが、宿泊した部屋のスパイシーな匂い。
始めて訪れる国の空港でわたしを出迎えた、甘ったるいココナッツの香り。
日曜礼拝の終わったあとの、光と静けさだけがもたらす教会の匂い。
中国の友人宅の台所に、濃く染みついていた丁子と八角の香り。
クリスマスの日に招かれた家の、燃える古い蝋燭と新しいモミの木の香り。
ダブリンのパブを満たす、タバコとギネスビールとソーダブレッドの匂い。

もちろん、心地よくない匂いもあった。限りなく不快に近いものも。
悲劇のポル・ポト時代から抜け出そうともがく90年代のプノンペンで、あてがわれたホテルの一室がペンキ塗り立てだったこと。眠れずに朝を迎えたわたしに、最高のお部屋をご用意したのですがゆっくりお休みいただけましたでしょうか、とフロント係は淀みなくそう言って、蓮の花のように微笑んだ。

それでも、わたしはカンボジアに繰り返し足を運び、盛夏のプールの前で立ち止まり、意味もなく母の裁縫箱を開き、主が不在の犬小屋を覗きこみ、午後の教会の末席に腰かけ、図書館の書庫室を歩き回り、繁華街のパブでギネスビールを頼み、中国籍の友だちの台所で深呼吸する。繰り返し、記憶の引き出しの奥ふかくにしまったあの香りに手を伸ばす。

そして、ひやりとしたものに触れ、急いで手を引っ込める。

警察官より渡された鞄を開いて、すぐに閉じた。もうここにいない人が、かつていたときの匂い。

財布/名刺入れ/時計/定期券/娘からの手紙/ハンドタオル/ノート/ボールペン/ピルケース。

彼が握り、彼が確認し、彼が開き、彼が触れたものたち。そのままクローゼットの奥にしまい、匂いもろとも閉じ込めた。

10年暮らしてきた家をそのままにして、娘を連れて実家に身を寄せたが、誰も住まない家に家賃を払い続けられるほどのゆとりはなかった。ゆとりがないのは心も同じだったが、家を片づけ、速やかに引き払わなければならない。わたしは呻きながら、重い腰をあげる。

娘が寝静まった午後10時、毎晩のように自転車のペダルを漕いだ。
街灯の下の雪柳がつぼみをつけ、咲いて白く輝いた。花びらが風に舞うのを許し、その足もとを斑模様に染めた。新緑が枝いっぱいにみなぎり、やがてすべての葉を落とした。絡み、捻れた電線のようになって、街灯の下で凍えていた。膝下までのコートで体を包み、パーカーに脱ぎ変え、剥き出しの腕でハンドルを握り、いつしかダウンジャケットになって、マフラーをきつく首に巻きつけた。そうして1年と1月、深夜の住宅街を、褪せた青の自転車で走った。

錆びかけた門を越え、光るステンレスのドアノブを静かに右に回して、タイル張りの玄関に足を踏み入れる。そこで待ち構えているのは無音と、焦げついたような闇と、熱気あるいは冷気、そして身動ぎすらしないあの頃の匂いだった。
呼吸する人が去り、植物は枯れて崩れ折れ、コンセントを抜かれた冷蔵庫は沈黙を護り、洗剤類はもぬけの殻で、服をあらかた廃棄しても、匂いはなお残る。本をまとめ、紐でくくる。服を段ボールに詰め、食器類を梱包する。引き出すたび、開くたび、匂いは立ち上がり、私の鼻腔と心を鋭く刺した。乾いた花殻をつかむと、青い黴が宙を舞った。台所を行ったり来たりするたび、古い油の匂いが四方に散った。
懐かしいとは思わなかった。あの頃を取り戻したいとも。ただ、思い出すことから逃れたかった。わたしの記憶ごとごみ袋に詰めて焼却処分にしたかった。匂いは、身をよじるわたしの目の前に、黙って立ちはだかる。

深夜、帰宅するとすぐにシャワーを浴びた。浴槽に入浴剤を注ぎこみ、人工的な香りで浴室を満たした。
あとどのくらい通えば、あの匂いを絶ちきることができるのだろう。蛍光緑の湯から立ち昇る〈癒しの森の香り〉は、神経を逆なでるばかりで、決して癒すことはなかった。

明日が退去期限という1月の終わり、実家にいた頃からずっと懇意にしている大工の棟梁が、大きな荷物の運び出しのため、2人の助っ人を引き連れてやって来てくれた。
解体されたベッドはたちどころにトラックの荷台に積み上げられ、足を踏ん張っていた本棚は難なく家の扉をくぐり、乗車を待つ冷蔵庫や洗濯機が、仲良く並んで硝子の空を眺めている。距離を置いて一部始終を見ていた近所の人が、大変でしたねと、13ヵ月の沈黙を破り、初めて言う。

走り出したトラックを見送ると、空っぽになった借家の、窓という窓をすべて開けた。身を切るような風が、植えた草木をすべて抜いて更地となった庭を越え、障害物の去ったフローリングの床を、滑るように走り抜けていく。

ああ、匂いがない。
別離を望み続けたあの匂いは、もうどこにもなかった。手放すことを切望していた匂いをようやく手放せたとき、待っていたのは安堵でも喝采でもなく、刃の欠けたカミソリのような悲嘆であるとは。

玄関の上がり框に腰をおろす。霜焼けをおこした足先の感覚は鈍いのに、頭は失われたばかりの匂いを記憶の中に追い求め、冴え渡る。
しばらくそうしていたあと、近くに住む大家さんに電話をかけ、これから家の鍵を返しにいきます、と告げた。

荷物を解いたトラックが帰ってきて、棟梁が窓から顔を出す。家まで自転車で20分の距離なのに、送ってくれるという。
自転車を荷台に乗せ、助手席によじ登る。人と荷物の熟れたような匂いに、心が緩む。棟梁のねぎらいの言葉に、瞼が重くなる。エンジンがかかり、トラックは身震いをして走り出す。目の前の大きなフロントガラスが、砂糖菓子のような儚い朱に変わっていく。

うたたねをから目が覚めると、見るより先に潮の匂いが押し寄せてきた。黒光りする海が、千切れながら後ろに流れていく。わたしは、退去した家から最後に持ち出したタオルを傍らに引き寄せる。タオルに残されていた、行くあてのないがらんどうの香りが、輝く群青の夜に吸い込まれていく。

会話はなかった。悲しみももうなかった。ただ、沈黙だけがもたらす優しさと、無言だけが成しえる励ましと、濃い冬の海の香りだけが、そこにあった。

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