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阿佐ヶ谷、〈西瓜糖〉の日々

“いま、こうしてわたしの世界が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖のせかいでいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。“

リチャード・ブローティガン
『西瓜糖の日々』抜粋

むかし、〈西瓜糖〉があった。

東京・JR阿佐ヶ谷駅を背にして、中杉通りを進むと、歩道橋の向こう、すらりとした欅並木の傍らにその店はあった。
曇りのないガラス張りの入口から臨む店内は、左側には4人がけの、右側には2人がけのテーブルセットが涼しげに並んでいる。ドアの真正面には、照明と本棚を兼ね備えた柱状のオブジェが立ち、その奥に、仄暗い厨房が控えている。ラバーシートで覆われた床は、白地に黒の水玉模様だった。両サイドの壁は、若い現代美術作家のために解放されていて、飾られる写真や絵が、くるくる変わった。

最初は、ひとりで行った。
そのころ、兄夫婦が隣駅に住んでいた。遊びに行った日曜日の午後、理由もなく始めた果てしない散歩の果てに、その店はあった。
透明な入口で足を止め、首を伸ばして店内を検分していると、カウンターの中にいるお店の人と目が合う。蛇に睨まれた蛙の気分になって、重たい扉を押す。美術関連書籍がひしめく本棚から適当に本を抜き取り、右端のテーブルに、白いリネンのワンピースに包んだ体を押し込んだ。
夏だった。

萌葱色の欅の葉が夕方の光を砕き、磨き抜かれた硝子窓に散らしていた。ステンレス製のテーブルは冷えていて、投げ出した腕の火照りを鎮めた。私はアイスコーヒーを頼んだらしい。背の低いグラスに落とされた、ごつごつとした氷のまわりを漂う滑らかな漆黒を、今も憶えている。
結局、手にした『美術手帖』は開かなかった。

そのあと、友だちと訪れた。兄夫婦との待ち合わせに使った。ヒグラシが鳴き、夏が重い腰をあげるころ、私も席を立って、お店から遠退いた。アイルランドの大学院に戻り、天の邪鬼のような秋と、仏頂面をした冬と、天真爛漫な春を、そこで過ごした。

初夏に結婚して、阿佐ヶ谷に住んだのは、偶然を装った当然だったのかもしれない。私たちはよりにもよって、西瓜糖から徒歩5分、毎日でも通える場所で生活を始めたのだった。

毎朝、娘を保育園に預けて、眠る西瓜糖の前を小走りで駅に向かい、毎夕、保育園で待つ娘を迎えに、灯る西瓜糖の前を急いて走った。週末、西瓜糖を横切って小児科を目指し、賑わう店の様子をそっと目のはしで窺いながら、数日分の買い物袋をぶら下げ、体を傾げながら往ったり来たりした。
今になって思えば、夫の体調不良はその頃からで、週末は部屋で休んでいることが多かった。ときどき母がやってきて、ひねもす娘の相手をし、兄夫婦も顔を出し、彼女を連れ出してくれた。手にした自由時間を、ささやかな息抜きに使えばよいのに、小さな疚しさが私の胸のうちに巣食って、西瓜糖の前を、駆け足で通過させた。
こんなにも近いのに、西瓜糖はひどく遠かった。

娘が2歳を過ぎたころ、ガラス扉の前で足を止めた。
扉をあけ、娘の背中を押し、そのあとを私が続いた。ほかに客人はいなかった。店内を見渡し、娘を促し、厨房を背に、入口に一番近い席に座った。
紅に染まった欅の木漏れ日が、揺れる手を伸ばして、私の腕をかすめた。好奇心の塊である娘は、さっそく探検を開始した。お盆にグラスを載せて近づいてきた店主が、カビに覆われた記憶の縄を手繰り寄せるときの目をした。

休日の娘のお気に入りは、それまでの〈スターバックスのスチームミルク〉と、〈ジェラート屋さんのイチゴミルク〉から、〈西瓜糖のすべて〉へと、とって替わった。
保育園帰り、旧中杉通りに面した〈元我堂〉という、宝石箱のような古本屋に日参していた彼女は、そこで手に入れた「めんどりヒルダ」シリーズの絵本と、おまけにもらったチュッパチャプスを手提げ袋に入れて、土曜日の午後の住宅街を、ひよこのように歩いていく。
西瓜糖の重い扉を全力で押し、いつもの席を確保すると、家から運んできためんどりたちを、手提げ袋もろともすっかり忘れて、店の本棚のジャクソン・ポロックの画集を、瞳を輝かせて引っ張り出すのだった。
そして、砂糖壺から取り出した琥珀色の塊を、小さな口に放り込む。そのうち、カップのソーサーに添えられた一粒のピスタチオを、真珠のような乳歯を剥いて齧りはじめる。

リチャード・ブローティガンの本を、本棚の中に見つけたのは、その頃だっただろうか。背表紙に浮かぶ『西瓜糖の日々』という言葉は、生活に煽られ、強ばり、軋んでいた私の心に、穏やかに作用した。西瓜─糖蜜─日々。小気味良い音が耳に響き、控えめな甘さが口の中に広がる。もしかしてこれは、西瓜糖という名の桃源郷の話だろうか?

そうして私は、〈西瓜糖〉の由来を知ることになる。初代オーナーが、ブローティガンの『西瓜糖の日々』から名を取り、1979年に開いたこの店に、それを与えたということを。

西瓜種子インクにペンを浸すようにして書き綴ったであろう、ブローティガンの穏やかな憂鬱は、透明な西瓜糖の世界に足を踏み入れる者たちを、寂寞と残酷の暗がりへと、微笑みながら運んでいく。
ゆっくりとページを繰りながら私は、この本が生涯忘れえぬ一冊になることを予感する。

3才になった娘は、ますます〈西瓜糖〉と親しくなっていく。
2代目店主の郷里より送られてきた文旦を、破壊するかのように剥きつつ、ホットミルクをすする。テーブルいっぱいに塗り絵セットを拡げ、ドキンちゃんの顔を緑色に染める。カウンター扉を越えて厨房に入り込み、冷蔵庫の中身まで検分する。そうやって、ほかに客のいない時間を自由気ままに過ごし、混みあえば、背中の翼を閉じた天使のような姿で静かに絵本を読んでいた。
オーナー夫妻も芸術家だった。いただいた案内を手に、展示を観に出かけたこともある。当然、娘も行きたがったが、好奇心の塊が、繊細であろう作品に修復不可能な穴を開けそうで、兄夫婦とアンパンマンたちに、その身を任せた。

阿佐ヶ谷、西瓜糖での日々が、穏やかに過ぎていく。それは、西瓜の汁を煮詰めた砂糖のような、優しい甘さに満ちていた。

“夜はひんやりとしていた。星たちが赤い。わたしは西瓜工場の横をずっと歩いていった。その工場で、西瓜から砂糖を採る。西瓜から汁を取り、それを混じりもののない砂糖になるまで煮詰める。それから、その砂糖をわたしたちのもの、つまり、わたしたちの生活のかたちに変えるのだ。”

─『西瓜糖の日々』抜粋

翌年の春、私たちは阿佐ヶ谷を後にした。

阿佐ヶ谷の隣駅に住む兄夫婦が、海の近くに引っ越していった。託された簡単な事務処理を終え、中途半端に残った午後を埋めるための散歩は、私を阿佐ヶ谷駅南口から伸びる商店街、パールセンターへと誘った。

(鉢の木の豆大福はおいしかった。久しぶりに食べたいな。蒲重蒲鉾店のさつま揚げを買って帰ろうか。今夜はおでんを作ろう。ねじめ民芸店で小物を見てみたい。酒屋の番頭猫さん、相変わらず元気そう。)

漂流と座礁を繰り返しながら、私は阿佐ヶ谷駅へと踵を返す。月夜のクラゲのようにゆらゆら歩いていると、向こうから近づいてくる人と視線が合う。その人は、古い記憶の縄を手繰り寄せる目をしている。先に声を上げたのは私だ。だが心の声は、声にならない。

記憶の中のその人は、常にジーンズにエプロン姿だったが、目の前にいるその人は、暗色の窮屈そうなスーツ姿だった。私の訝るような目は、口よりも多くを語ったのだろう。賑わう商店街の真ん中で、消え入りそうに立つ西瓜糖の店主は、「店を閉じたんです。今は就職活動中で、これから面接です」と、訊ねなかった私の疑問に、早口で答えた。

私たちは北と南に別れた。もう二度と会えないだろうから、もっと話せばよかった。そのまま駅の反対側にまわり、閉じた西瓜糖を見に行くこともできた。しかし、私の足は改札を通り抜け、 滑り込んできた電車に乗りこみ、圧倒的な感情に押し潰されそうな私自身を、阿佐ヶ谷から引き離した。

翌年の暮れ、親戚の住む阿佐ヶ谷に、久しぶりに降り立った。
〈うさぎや〉でどら焼きを買い、親戚の家の門をくぐり、遺影に手を合わせ、ひとしきり話をして、また門をくぐる。
いくつかの路地を曲がり、往来の激しい大通りに出る。信号が青になり、また赤になる。三度目の赤が青に替わったとき、ゆっくりと歩きだす。私の足はようやく、かつての西瓜糖を見に行くことを、私自身に許したのだった。
中杉通りを北に歩いていく。くたびれた歩道橋が見える。これを越えるとすぐのところにあの店はあるのに、私は歩道橋の階段を一段ずつ、時を稼ぐような速度で上っていく。

歩道橋から眺める師走の町は、白茶けていた。葉を落とした楓の木々は、打ち捨てられた骸骨のように見えた。右手に連なるコンクリートの壁が、血流の絶えた皮膚のようだった。西から走ってきたバスが、左手の墓地の前で止まった。帽子を目深に被り、トラップを降りてくる男性は、黄泉の国から戻ってきたのかもしれなかった。

私の目が、輝くガラス窓の建物を捉える。遠目に見える店の形は、記憶のままだったが、そのままであるはずがなかった。
風が強かった。道端に寄せた枯れ葉が広がった。レジ袋が疾走した。誰かのニット帽が吹き飛ばされた。古着屋の看板が倒れた。停められた自転車が雪崩れた。
私の西瓜糖の記憶も、西瓜糖自身の記憶も、煮詰まり、薄まり、欠落し、剥離しながら、冷酷無比な時間によって、確実に奪われていく。

それから10年以上経った先日、何かの話の流れで、〈西瓜糖〉のことをふと思い出した。ダイニングで憩う娘は、デコポンをきれいに剥き、一房ずつ口に入れては、ホットミルクをすすっている。

─西瓜糖のこと覚えている?

娘が怪訝そうな顔をあげる。
私は構わず話し続ける。

柑橘類と乳製品って一緒に食べると微妙だよね、などと言いながら、いつ果てるともわからない長話を最後まで忍耐強く聞いた彼女は、首をかしげ、反応を待つ私に向かい、残酷なほどの明るさで言う。

─スイカトウ、ねえ。なんにも憶えてない。


─All people lie, in their writing as much as in their lives.

ものを書くとき人は、生きているときと同じくらい嘘をつく、とイーユン・リーは言う。
私は、嘘のない〈西瓜糖〉の日々を、ここに書けたのだろうか。

“この小説は、カリフォルニア州ボリナスにあった家で、1964年5月13日に書き始められ、カリフォルニア州サン・フランシスコのビーヴァー通り123番地の家の表側の部屋で、1964年7月19日に書き終えられた。この小説はドン・アレン、ジョアン・ガイガー、それにマイケル・マクルアのために書かれた。“

リチャード・ブローティガン
『西瓜糖の日々』抜粋

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