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スタディ通信 23年4月号

昨年11月から今年の3月まで、毎日バタバタといろんなことをしていましたが、昨夜のスタディでやっと一区切りがついた感じがします。
けっこう疲れたけれど、充実していたような気がしています。今まで手をつけられなかったことにチャレンジできたので。



スタディのふりかえり

さて、昨夜は『宗教的経験の諸相』の岩波文庫版下巻、「聖徳」のところをやりました。
内容はシラバスにまとめているので、参照してください。

この「聖徳」の章は『諸相』の中でも長いのですが、昨夜のセッション1回で終わりました。これは『諸相』スタディのセッションの中では、異例の短さです。

「聖徳」には宗教体験のさまざまな実例がふんだんに引用されます。1年前、同じ箇所でセッションをした時、気づいたことがあります。それは、そのように強烈な宗教体験の実例をあまりにたくさん持ち出すと、その後ろにある共通する原理に目が向かず、その実例のうわべに参加者の関心が集中してしまうということです。

僕たちAAメンバーは「こうあらねばならない」という白黒思考の高い理想を持つ傾向が強いですが、そういった高い理想を強化してしまうことに気づいたのでした。「この本に出てくるような、聖者のようにならなければならない」というように。
でもそれってできるでしょうか。無理でしょ(即答)。ということで、ジェイムズの引用する宗教体験のうわべではなく、その背後の原理に注目してもらおうと、実体験を切り詰めて1回のセッションでまとめたという次第です。

さて、その原理とは?
聖徳にあられる人格上の変化は多彩ですが、そのうわべだけを見ていてはわからないことがあります。それは、その変化を神的な存在、つまりハイヤーパワーが引き起こしてくれていることです。
つまり、聖徳という性質を得た人は「自分では決してできなかったことを、神がやってくれている」と実感するようになるということですね。だって、その変化の原動力は神なので。そこには、「人が神と触れ合えば、神がその人に必要な人格の変化を起こしてくれるのだ」という原理があります。

そこを抜かしてしまうと、宗教体験も俗物の道徳主義に堕してしまいます。人からの高い評価を求めるだけのAAメンバーになってしまうケースも往々にしてありますね。
それは、ハイヤーパワーを信じていると言いながらも、実は自分の信念や確信だけを信じている姿なのでしょう。

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さて、少し具体的なことを題材に考えてみたいことがあります。それは、回心を経て神の現前を実感し、聖徳という人格の変化を得た人は「道徳的に素晴らしい人になる」のだろうか、という疑問です。

『諸相』にもたびたび登場しているマルティン・ルターという人物がいます。彼は宗教改革の立役者として、歴史に名を刻みました。


彼は「塔の体験」と呼ばれる回心を経て、ルター神学と呼ばれる鮮烈な霊性がほと走る思想を展開しました。その結果、彼は当時の強大な権力であるローマ教皇庁と対立することになります。
ルターの思想をめぐり、ヨーロッパのキリスト教社会は混乱します。その中で、事態を重くみたローマ教皇庁はルターに「破門脅迫の大教勅」を発し、ルターがその思想を撤回しないと「大破門」というローマ教会法が定める最も重い破門に処すると宣言します。

ここを詳しく知るためには、徳善義和『マルティン・ルター』という新書を読めばいいです。ここでは、このテキストの中から、重要な箇所を引用します。
ルターがウォルムスで開かれた神聖ローマ帝国議会で、自説の撤回を求められる場面です。

そのころ議会に出席していた諸侯、諸身分はおよそ四〇〇名だったという。きらびやかな高位顕官たちが居並ぶなかを、ひとり黒い修道服をまとった痩身の修道士ルターが入場して審問は始まった。ルターの前には机が一つ置かれ、そこには自分の書いた本が積み上げられていた。審議を司る皇帝の顧問官は、ルターに三つのことを尋ねた。その本はおまえのものか、その本の中に書かれていることはすべておまえの考えか。その本に書かれていることをお前は撤回するか。いずれもイエスか、ノーである。もはや弁明は一歳無用であった。
ルターは繰り返されたこの問いに対して、二日目の喚問の際にこう答えたと記録している。
「聖書の証言と明白な根拠をもって服せしめられない限り、私は、私があげた聖句に服しつづけます。私の良心は神のことばに捉えられています。なぜなら私は、教皇も公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことができませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ、アーメン」。
ヨーロッパの近代は、思想的には、個人の人格、主体性、信念や心情を尊重することを基本に発展したが、ルターのこの発言はその先駆けとなったともいえるだろう。ただし、ルターの言う「良心」とは、神という絶対的な存在を前にしての良心であって、近代の思想家たちが考える、人間を主体とした良心とは異なることに注意が必要である。ルターには、人間は罪を犯さざるをえない存在であるという認識があった。そういう存在である人間の良心は、自ら善きものになれるものではなく、神のことばにとらえられることで初めて善きものになれる。ルターの回答の最後、「神よ、私を助けたまえ」という言葉は、そのことを語っているのである。

徳善(2012) : 84-86

ここでは、目の前の社会に対する明白な不服従と抵抗が表明されています。道徳の観点から見れば、それは「悪」でしょう。しかしルターは、社会的な常識や道徳よりも自分と神との関係を優先しました。彼は社会のルールよりも、神を強く感じていたのでしょう。
このルターへの大破門をきっかけに、ヨーロッパで宗教改革が始まっていきます。そしてその思想は、遠くアメリカまで波急し、オックスフォード・グループに影響を与え、ひいてはAAにも影響を与えています。

先のルターの姿勢を見ても理解できるように、神は人を道徳という価値観を遥かに超えたところに導くこともあります。聖徳=道徳という図式が決して成り立たない理由はここにあります。神は人間社会の道徳も超えているのです。
これはヨブ記でも展開される神概念ですね。

なので、「回心(霊的体験・目覚め)を経た人は道徳的に素晴らしい人になる」という信念は、あまり当てにならないものだと言えるでしょう。神がその人をどこに導くかは、神のみが知っていることです。
神の意志を人間の道徳で縛ることは、敬虔主義的な世界観からすると「傲慢」という評価を与えられるものです。人間は世界の中心ではないし、人間の道徳が世界の中心ではないのですから。

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そこを理解すると、下記のビッグブックの一節もまた新たに迫ってくるのではないでしょうか。

よい道徳や人生哲学があれば飲酒の問題が克服できるというのであれば、私たちはずっと昔に回復していたはずである。けれども、道徳や哲学にどんなに真剣に取り組んでも、助からなかった。道徳的に生き、哲学に心の安らぎを求めようと思い、一所懸命に決意を固めたのに、私たちには飲むのをやめるのに必要な力は与えられなかった。人間の意志ではどうにもならなかった。何の役にも立たなかったのである。

AA(2003) : 66

AAにたどり着いてしまうような絶望的なアルコホーリクには、人間の意志を基盤とした道徳や思想は「解決」にならないのです。それがAAの経験です。
では「解決」はどこにあるのか。それは私たちの実体験が示しています。

その実体験とは、人間を超えた力である神が、私たちを助けてくれたので飲酒が止まったという実体験です。

自分ではできなかったことを、神がやってくださっていることを、私たちは突如として気づくようになるのだ。

AA(2003) : 120-121


参考文献

AA (2003) 『アルコホーリクス・アノニマス』 AA日本出版局訳, JSO
徳善義和 (2012) 『マルティン・ルター』 岩波新書


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『諸相』スタディのシラバスやスケジュールなどは、下記公式サイトから。