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スタディ通信 23年3月号

なんかこないだ歩いてたら、梅が咲いてました。ちょっと前が元日だったような気がするのですが、なんか歳を重ねるごとに時間の流れは早くなる気がします。まぁ、実際そうなんでしょう。



スタディのふりかえり

昨夜は回心に伴う諸感情を足がかりに、回心の重要概念である「受動性」の話をしました。

「受動性」というと、何もせずに寝ているみたいな貧しいイメージを持たれがちなような気がしているのですが、ジェイムズの言う受動性はそういったものではありません。
そうではなく、積極的に受動性を求めていくという非常に高度なことを語っています。ここは、林研先生の『救済のプラグマティズム』が簡潔に本質を解説してくれています。

回心に際して外部に神的な対象が置かれる理由は、ひとつにはジェイムズが収集した経験の手記にそれが見出されるということである。ジェイムズは、回心経験の際に生じる特徴的な感じのひとつとして、「より高い支配力の感覚」を挙げる。また、回心の起こる条件として「まさに最後の一歩そのものは意志以外の力にゆだねられねばならず……そのとき自己の明け渡し(self-surrender)が必要となってくる」と言う。自己を滅却するというのは宗教によく見られるモチーフであるが、ジェイムズの解釈では個人の意志を働かせるということは「病める」自己が決定権を持つということであって、その「真の方向からそれてゆく意志的な努力の結果、〔心の〕再編成が実際には妨げられてしまう」からであるとされる。
つまり、自己の意志を放棄したときに、回心は生じる。
したがって、自己が明け渡されるときに起こる回心そのものは受動的な現象であり、それを引き起こす原因は自己の外部に想定されることになる。その外部の原因が、回心現象において感じられる神的な実在だというわけである。

(林 2021 : 44-45)

12ステップにおける「霊的体験・目覚め」の本質を見事に叙述している文章です。

しかし、昨夜も言いましたが、これって「体験しないとわからない」ものなのですよね。どれだけ言葉を尽くしても、言葉だけでは理解できなくて、この受動性における素晴らしさというのは体験しないとわからないのです。
これがわからないから、アル中は自分の力や努力だけを頼るという積極性にしがみつくのですが。

神の導きに導かれるというのは、自分で自分の人生を決定し道を切り開くような雄々しさとは、やはりどこか質的に違ったものでしょう。
そういった積極性をひたすら追い続けたのがビル.Wなのですが、彼はアルコールへの敗北を経て、自分の人生を自分で決定し切り開いていくという信念を捨てていったわけですね。
それはビッグブックにも書かれていますし、彼の人生そのものが証ししています。

ここらへんがどうも伝わりにくいのがもどかしいところですが、まぁ、そういうものなのです。なにかの食べ物の味は、それを食べないとわからないのと同じですね。

しかし、昨夜はこの2年数ヶ月の中で一番リラックスしてスタディの進行ができました。受動性の理解が深まっていくと、なんか楽になっていくのは事実のようです。

おのれの中で神と人間が和らぎ一つになれば、よき信頼が生まれ、平和以上の平和となるにちがいない!

(シレジウス 1992 : 163)

参考文献

シレジウス (1992)『シレジウス瞑想詩集』植田重雄・加藤智見 訳 岩波文庫
林研 (2021) 『救済のプラグマティズム』 春秋社


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