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スタディ通信 23年2月号

なんかいろいろ重なってまじでしんどい準備期間でしたが、なんとか27回目の『諸相』スタディを終えられました。



スタディのふりかえり

今回は回心における感情や、劇的な体験談を扱わないセッションだったので、なんかやってるほうも「渋いなぁ」と思いながら話してましたね。
けっこうジェイムズ心理学の理論的な部分に触れる回となりました。「意識の場」って概念ですね。この記事では触れませんが。

AAはアルコホリズムからの解決として「霊的体験 spiritual experience」霊的目覚め spiritual awakening」を提示しています。それはジェイムズの言う「回心 Conversion」をAA流に表現したものにほかなりません。

AAの共同創始者はビル.WとDr.ボブですが、彼らはそれぞれ、違ったタイプの体験をしました。タウンズ病院での劇的な回心体験をしたビル.Wは、それを「霊的体験」と名付け、一晩にしてアルコホリズムからの解放を実感することになりました。
一方、Dr.ボブの体験は明らかにゆっくりしたものです。彼に明確な「救いの体験」が訪れたのは最晩年のことであり、ボブのようにゆっくりとアルコホリズムからの回復を実感していく体験をAAでは「霊的目覚め」と言うようになりました。

さて、それらの体験の違いには、本質的な違いがあるのでしょうか?
急激な体験(霊的体験)は、ゆっくりとした体験(霊的目覚め)よりもより価値があり、より本質的なのでしょうか?リバイバル運動などでは、そのように主張されたこともあります。

そこでジェイムズは、その問いに対してこのように答えます。

どうかふりかえって、私が第一講で諸君を導いてゆこうと努めた結論の一つを想い出していただきたい、第一講で、ある事物の価値はその起源によって決定できるという観念に対して、私がどう反論したかを、諸君は記憶しておられるであろう。私は言っておいた、私たちの精神的判断、つまり、人間的な出来事あるいは状態の意義および価値に関する私たちの意見というものは、もっぱら、経験的な根拠に基づいて決定されなければならない。回心の状態の生活に対する果実が善いものであれば、たといその回心が一片の自然的心理であろうとも、私たちはそれを理想化し尊重すべきである。また、もしそれが善き果実を結ばぬものならば、よしそれが超自然的な存在によって与えられたものであろうとも、そんなものは躊躇なく片付けてしまうべきである。

ジェイムズ(1969) : 356

というわけで、ここでもプラグマティズムの思想が活きてきます。回心(霊的体験・目覚め)という現象の価値は、その現象のあり方ではなく、その現象によって引き起こされる結果によってその価値は決まるのです。

これは、私たちAAにとっても同じことが言えます。

私たちが手にした霊的体験・目覚めという回復が、自分や他の人の役に立たなかったら、それは何の価値があるでしょうか。回復というものは、その人の個人的体験であると同時に、社会の中で生きている私たちにとっては、同時に社会的なものです。

私たちはAAの回復を得たからと言って、聖人になるわけではありませんし、素晴らしい人になんてなりません。神様が飲酒を止めてくれているだけの、相変わらず病んだアル中のままです。
そんな私たちになにかの有用性があるとしたら、それは私たちが手にした「解決」を今苦しむアル中に無償で手渡そうとすることでしょう。そこが大事ですね。

最近よく思うことがあります。それは、いつまでも自分の欠点にばかり取り組んでいるのはあまりに自己中心的だということです。
変えられないものを変えようとして時間を無駄するのではなくて、自分の回復を少しでも価値あるものにしたいなら、変えられないものは受けいれながら誰かに手を差し伸べなよ、とプラグマティズムは語りかけてきます。

おそらく、それがAAの霊的体験・目覚めの本質に関わることなのだと感じています。
今苦しむアルコホーリクに、自分が手にした「解決」を手渡そうとする情熱を感じられないなら、それはAAの言う「解決」ではないのでしょう。

今回の渋いセッションでは、そんなことを考えながらセッションを進めていました。

神の恵みがなかったならば
But for the Grace of God.

参考文献

ジェイムズ, ウィリアム (1969) 『宗教的経験の諸相 (上)』桝田啓三郎訳, 岩波文庫


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