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スタディ通信 23年1月号

新年あけましておめでとうございます。
本年も『諸相』スタディをよろしくお願いします。



スタディのふりかえり

先日の『諸相』スタディでは「自己放棄 Self-surrender」という概念を扱いました。
この単語は文庫版下巻の事項索引にもありますので、興味のある方は調べて下さい。きっと、イメージがより明確になるでしょう。


さて、自己放棄の原語にはsurrenderという言葉が使われていますが、これはオックスフォード・グループが使っていた「降伏」という概念の原語と同じです。

上記、心の家路さんの小辞典では以下のようにまとめられています。

四つの霊的な実践(spiritual practices)とは、
 1. 自分の罪や誘惑を、もう一人と分かち合う ― Shareing (4,5)
 2. 神の守りと導きに人生を明け渡す ― Surrender (3)
 3. 自分が誤ったことをしたすべての相手に償いをする ― Restitution (8,9)
 4. 神の導きを求め、それを実践する ― Guidance (11,12)

心の家路 小辞典 「オックスフォード・グループ」

ジョー・マキューも著作の中で指摘しているように、この「明け渡す = 降伏 surrender」はAAにステップ3として受け継がれました。Surrenderという言葉は宗教的すぎるので、AAではあまり使われませんでしたが。

明け渡す・降伏 Surrender = ステップ3 = 自己放棄 Self-surrender

ステップ3以降の行動のステップが、ステップ3の決心を実現していくものであるならば、ステップ3〜12は自己放棄 Self-surrenderを自らに実現していく過程と理解することができるでしょう。

この「自己放棄」は、もといステップ3は、かなり一面的な理解がされていると私は感じています。『諸相』スタディでも説明したように、自己放棄とは自分の意志を放棄することなのですが、それは「素晴らしくきよく正しく道徳的な自分」になることを意味する、と捉えられていることが多いのではないでしょうか。

まぁ、それは完全な間違いではないにしても、唯一の正解ではないことは明確でしょう。『諸相』にも何度も登場するルターやカルヴァン、またトルストイやウェスレーらが「道徳的な素晴らしい人格者」だったかどうかを調べて考えてみれば分かる話です。そんなわけないよね。

参考:マルチン・ルターの病歴    滝上正
http://jsmh.umin.jp/journal/57-4/57-4_43

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では、自己放棄とはどのようなものでしょうか?
それを一言で定式化することは不可能でしょう。宗教体験にしても、また人の気質にしてもさまざまな諸相(variety)があることは、ジェイムズも積極的に認めることです。しかし、それを踏まえた上でAAメンバーとしての私が簡潔に言い表すならば「現実を受け入れること」です。

この世界に生きるということはさまざまな不条理があります。人が生きるということは、きれいなことばかりではありません。なぜなら、ビッグブックが主張するように、人間とはそれぞれが不完全な存在であり、失敗を繰り返しているからです。
私たちは時には、道徳的ではないこともしなければならないときがあります。社会の中にある対立を受けいれて、何かと戦わなければならないことももちろんあります。誰かを傷つけることがわかっていながら、なすべきことをなさなければならない時もあります。

生きる上では、常に「素晴らしくきよく正しく道徳的な自分」でいることは不可能でしょう。それが可能だとするならば、誰かに汚れ役を押し付け続けているということです。それは現実を受け入れる姿勢とは、かけ離れています。

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AAのアル中は自分が正しく美しいことを望む強い傾向があると感じます。そんな「素晴らしくきよく正しく道徳的な自分」という高すぎる幻想を棄て去って、どうしようもないほど汚れながら生きていくしかない自分と直面し、受けいれていくことは「自己放棄 Self-surrender」と確かに言えるでしょう。
ビル.WにしてもDr.ボブにしても、決して聖人ではありませんでした。ただのアル中だった共同創始者たちは、自分に与えられた役割を鬱になったり、社会的信用を落としたりしながらも引き受けていきました。それは共同創始者たちが夢見た「こうありたかった自分」とはかけ離れていたでしょうが、神から与えられた現実の自分という不条理を受けいれて生きたということです。

かくして、宗教は、どのみち必要なものを、容易にし、よろこんで行なわせるものである。

ジェイムズ(1969) : 82

というようなわけで、今の日本のAAメンバーの多くが「素晴らしい信仰を持った素晴らしい自分」を目指しているとするならば、「自己放棄」の現段階のプラグマティックな解釈は「素晴らしい信仰と素晴らしい自分を得られるという幻想を棄て、神から与えられた不都合な役割を受けいれること」と解釈できそうです。
もちろんそれは、唯一の解釈ではないにしても、確かな有用性がある解釈だと感じます。

次回、23年2月4日は「第十講 回心——結び」に入ります。ここはジェイムズによる回心の心理学的説明のクライマックスですので、お楽しみに。

参考文献

ジェイムズ, ウィリアム (1969) 『宗教的経験の諸相 (上)』桝田啓三郎訳, 岩波文庫


リンク

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『諸相』スタディのシラバスやスケジュールなどは、下記公式サイトから。