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普通の子はズル休みなんてしないと思っていた私は、

あなたが歴史上に一人しか存在しない以上、自分の悩みには、自力で向かい合わなければいけません。
深井龍之介 『歴史思考』 p177



「きょうは休みたい」

Kがまた学校を休んだ。

熱があるわけでも、風邪の症状があるわけでも、特別な用事があるわけでもなく。

これで5度目だ。

夫が言った。

「少し疲れてる程度のことで休んでるとそのうちズル休み癖がついて、将来自分がつらい思いをすることになる。社会は甘くないぞ」と。

私も概ね同じ意見だった。

その時はまだ。


正当な理由のない休み

Kという人間をひと言で表すなら「真面目な普通の子(16)」だ。

あなたの長所はなにかと問われれば「真面目なところ」と答え、短所を問われれば「真面目すぎるところ」と答えるような子なのだ。

実際、Kは中学3年間で皆勤賞を貰った。雨の日も猛暑の日も、3年間1日も休まなかった。

すごすぎる。私にはとても真似できない。

真面目で努力家。

それ以外は特段目立ったところのない普通の子。それが、K。

そんなKが、高校に進学して数ヶ月後から、前述のとおり理由なく休むようになった。

月曜であることが多い。

朝起きるものの支度する様子もなく「きょうは休みたい」と伝えに来、大概はその日1日を部屋着のままゆったり過ごす。

「休みたい」とわざわざ言いにくるのは私の許可を求めているのではなく、単に保護者側のアプリから欠席連絡を入力してもらうためだ。

Kは休む意思をハナから決めている。

正当な理由のない休み。

世間一般で呼ばれるところのズル休み、あるいはサボりである。

どうしちゃったの、K。

私たち家族はKの変化に戸惑った。

真面目な普通の子なのに。

ズル休みという概念からもっとも遠いところにいるはずのKなのに。

なにかあったのだろうか。

新しい環境に馴染めないストレスを抱えているのだろうか。

自分で選んだ高校は、入学してみたら思ってたのと違ったのだろうか。

いや、様子を見ているとどうやらそうでもない。

同クラには気の合う友達がいて毎日連絡を取りあっているし、部活も上下関係がなく仲良し。

休日はどこかに遊びに行き、充実した顔で帰ってくる。

普通に青春を謳歌している。

とはいえ私という人間は心が薄汚れているので、「表面的には仲良さそうに見えてもじつは裏では…」という勘ぐりを拭いきれず、Kにそれとなく探りを入れてみたりもした。

ところがそれは杞憂だったようで、ちゃんと疑いなく良好らしい。

人間関係のトラブルがあるわけではなさそうだ。

では学業の面で悩みがあり学校に行きたくないのかというと、そちらも考えにくく、成績は今のところ申し分ない。

人間関係は良好、授業もついていけている。

Kが学校を休む具体的な理由は特に見当たらない。

ならどうして休むのか。

休みたいから休む、は欠席の理由になるのか。


めちゃくちゃな生活リズム

私は、Kの日常をよく見たり顧みることに努めた。

中学時代と明らかに違うのは、高校生になってからのKはやたらと忙しいということ。

朝、自転車を5km漕いで登校し、授業を受け部活をする。帰ってくる時はすでに夜で、そこから課題(宿題)エトセトラ。

分単位で時間と戦っている。平日はすべてそんな感じ。

土曜日は部活やら課外やらがあるのでやはり学校に行くし、日曜日も意外と学校関連の予定があったりする。

ない場合には、ようやくまとまった自由時間が発生し、そんな日は十代らしく友人と遊びに出かけていく。

ただしこの時点で週末の課題は片づいていないので、結果的に日曜も夜中まで机に向かう。これが週末。

この週間の繰り返し。

今のKはいつも時間に追われている。

なぜか。

思うに、高校生になって毎日やらなければならないことが増えすぎて、Kの時間感覚は今バグってしまっている。

3連休に4日分の予定を詰め込んでしまいキャパオーバーになったり。

3時間かかる課題に手をつけないまま、動画を3時間見てしまったり。

効率的に動かないととても捌けない状況で、効率を重視していないから、時間がどんどん足りなくなる。

ゆえに、どうにか課題を終わらせ真夜中というか朝方に冷めきった風呂場でシャワーを浴びた後、ほんの2、3時間の睡眠をとって登校するはめになる。

あるいは、夜ちょっと仮眠のつもりで部活の汗もそのままにベッドに寝転がり、そのまま朝を迎え愕然としなくちゃならなくなる。

Kのめちゃくちゃな生活リズムに、私含め家族みんなが心配をしている。

睡眠不足から体調を崩すんじゃないかと。

将来、社会人としてやっていけるのかと。

いくら忙しいといってもそれは同級生たちと同じ条件なのであり、いや同じどころか塾や習い事を並行している人はさらなる多忙の中きちんとこなしているわけで。

やはりKは、今のままでいいわけがない。

めちゃくちゃな生活リズムを、今すぐ普通レベルに改善しなくちゃならない。

適切なルーティンを、正しい時間の感覚を身につけなくてはいけない。


わかっているのにどうにもならない

時間の管理が上手くできてないことについて、目を逸らさずに自覚すること。その上で、対処・対策が必要なこと。

それを、私からKに伝えた。

今から訓練していけば受験にも間に合うから大丈夫だよと。自分の人生のために必要なことだから一緒にがんばって克服しようと。

責める口調にならないよう、私は意識して話した。

努めて冷静に、論理的に、Kに伝えたつもりだった。

だったのに、Kは突然泣いた。

泣いて私に「いやだ」と言った。

「やりたくない」と、ゲロを吐くように言った。

過呼吸一歩手前だった。

なぜ。

私の考えは間違っていないはずなのに、なぜそんなに泣くの。

この場面は「なるほど。じゃあ明日から心機一転がんばるね」っていう展開なんじゃないの。

真面目なKならば。

どこから。

私はどこから間違えていたんだ。

私は、Kの泣く姿を目にするまで疑っていなかった。

自らの性質を、Kは認識できていないのだろうと。

であるからこそ、自分の行動の傾向を認知し分析し特訓しさえすれば、Kも人並みにできるようになるはずだと。

そう思っていた。それが真実だと疑わなかった。

でも違った。

前提が違っていた。

Kにはおそらく自覚がある。

同級生たちのように上手くできない自分をちゃんとわかっている。

3連休に4日分の予定を組んでしまう自分のミスを理解している。

誰よりも本人が認知している。

Kは表面にこそ出さないが、胸の内では「今のままじゃダメだ」と思っているのではないか。

困り焦っているのではないか。

頭ではちゃんとわかっているのに、現実にはどうにもできないでいるのではないか。

そしてまさにその「わかっていること」を、自分以外の人間に理論整然と指摘されたから、図星を突かれたから、だからKは強烈なストレスをおぼえた。

愚かなのは、誰。

Kとの会話にあたり、タスクの優先順位を付箋に書き出す手法だとか、課題と生活の時間配分をざっくり当てはめていく思考法だとか、そんな克服方法をいかに伝えるかシュミレートしていたけれど。

Kに必要なのは付け焼き刃のテクニックじゃない。

これはもっと根本的な問題。

Kの心の、内面の問題なんだ。

得意なこと、不得意なこと。向き不向きは、誰しもある。

みんなが難なくできていることが、自分にとっては非常に困難なタスクに思えることは、ある。

例えば私はスーパーマーケットという場所がとても苦手で、食材を買うことのハードルが非常に高く感じる。

できないことを責めてはいけないし、当然されたくもない。

Kは単に、時間を先読みしたり予定を組んだりするのが不得意なだけ。

それを他者(私)の主導で矯正することが本人にとって大きなストレスになるのなら、無理を強いないほうがいいに決まってる。

K自身がコントロールできないことを、他者が思いどおりに動かすことはできない。

今はたぶん、Kを信じて「待つ」フェーズなのだと思う。

Kが自分でなにかしらのきっかけをつかむまで、見守り、Kなりのペースにまかせる。

先回りしない。

手を出さない。

口を出さない。

そしていつか、もしもKから頼られたり、助けを求められたりしたら、その時にめいっぱい力になればいい。


未来は誰にもわからない

数十年前と比べるだけでも、こんなに価値観が違っているんです。価値観や物の考え方、さまざまな前提が次々に変わっていくのが現代です。そう考えると、現代を生きる僕たちは特定の価値観に依存しないほうが楽なのではないでしょうか。
深井龍之介 『歴史思考』 p200


Kの涙を見て以降、私は考え続けていた。

で、思った。

Kが時々学校を休むことと、Kが時間の管理を不得意としていることは、関連はしてるものの別々の問題だな、と。

私は「なぜ休むのか」を追求する途中で、Kの弱い部分につい目がいってしまっていた。

問うべきだったのは、「休みたいから休む」は欠席の理由になるのか。

あるいは転じて、なぜ休んだらいけないのか、だ。

冒頭に書いたとおり、度々休むことでズル休み癖がついてしまうと、将来社会に出たあと苦労するはずで、だから休むのは良くないだろう、と当初は思っていた。

これ、私も夫もだいぶ昭和だったなと思う。

よくよく考えてみれば、今ですらこんなにも多様性と言われてる時代なわけで、Kが社会人になる頃には、きっとますます別次元の世界が広がっている。

職種も働きかたも、私のつまらない想像なんか置き去りにしてあっという間に想定外に変わっていく。

どうにもならないかもしれないし、どうにでもなるかもしれない。

どう転ぶかはわからない。

コロナだって、1ドル150円台だって、4年前には誰も予見できなかった。

未来は誰にもわからない。

だから、「ズル休み癖があると社会人として苦労するかも」という一点集中の心配は、心配すること自体にあまり意味がない。

そうかもしれないけど、そうじゃない可能性も大きいのだから。

休んだらいけない理由には「常識的に考えてズル休みはよくない」という、当たり前とか社会通念もあるかと思う。

ごくごく正論に思える価値観だし、私もどちらかといえばそう思ってたけど、じつはそれは絶対の価値観ではない。

「常識」も「当たり前」も、それら概念の指す中身は必ずしも一定ではない。

時が違えば、土地が違えば、社会が違えば、人が違えば、それは正反対にだって変わりうるもの。うつろうもの。

(これについては後述する本が遥かにわかりやすく書いてくれているのでぜひ読んでほしい。私も今回読み返して腑に落ちるものがたくさんあった)

現在の日本の社会では概ねそのように思われているかもしれないけれど、別に普遍的な価値観というわけじゃないから。

とらわれる必要はないし、とらわれている人に責められる義理もない。


ズル休みなんかじゃない

不確定な未来を勝手に憂いて、私がムダな心配をしすぎていたことはわかった。

とはいえ、Kのめちゃくちゃな生活リズムだけは、それだけはすぐにでも改善なされないものかと切実に思っている。

Kの時間の使いかたが上手くないのは仕方なくそうなってしまうものだとわかっていても、でも本音はやっぱり毎日しっかり睡眠をとってほしい。

Kが体調を崩すのではないかと、本気で心配しているから。

ところで、当の本人のKの健康状態は実際のところどうなのかというと。

思いがけず、Kは現在すこぶる健康だ。

ゴリゴリではないけど飄々とした余裕がある。

意外にも。

でもその余裕がなくなる時もある。

「きょうは休みたい」と言いに来る朝だ。

そう。

そうなんだ。

Kは、自分が限界を越えしんどくなりすぎる前に、それを見越して自身で休養をとっていたのだ。

時間感覚のバグによる心身のズレを、時々休むことで調整していた。バランスをとっていた。

そしてそれは今のところ成果を出しており、Kは健康を維持している。

Kが言うところの「休みたいから休む」の真意は、自分の体調管理のため。

自己の心身を整えるため。

それは、少なくとも私の考えでは、欠席の理由として極めて正当だと思う。

学校側の評価や世間の意見とは異なるかもしれないけど。

賢明な判断だとも思う。

限界まで疲れているのに休むことを躊躇してたら、心や身体を悪くしてしまう可能性がある。

Kには間違っても絶対にそうなってほしくない。

自分を守るために休む。

それはそもそも、ズル休みなんかじゃない。

KはKなりにちゃんと考えている。行動している。

信頼できる友達がいる。協調性もある。

自分の疲れを感じた時には「休みたい」と家族に伝えることができる。

このKの、いったいどこが問題なんだ。


考え続けていく

ゴータマは人間が本来、コントロールできないことをコントロールできると思い込むことを「執着」と呼びました。
深井龍之介 『歴史思考』 p185


今回の私の一連の悩みに寄り添い、考えることを手助けしてくれた本がある。

この文章の中でも勝手ながら引用させてもらった。

コテンラジオのパーソナリティ、深井さんのご本。

深井龍之介『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』ダイヤモンド社 2022年


この本は、自由ゆえに悩ましい現代を生きる読者に、終始優しく語りかけてくれる。

先人たちの知が集結している古典を読んで、教養を身につけ、たくさんの新しい視点を手に入れると、知らぬ間に陥っていた自らの「思い込み」から抜け出すことができるんだよ、と。

「当たり前」という縛りなしに世界を見渡せば、今悩んでいることがじつは別に悩まなくてもいいことだったと気づけるはずだよ、と。

なんだか私のために存在してくれているかのような、本。

もしも『歴史思考』を読んでいなかったら、普段からコテンラジオを聴いていなかったら、私はここまで真剣に考え続けることはしていなかったかもしれない。

もしかしたら、Kを車に乗せて、無理矢理にでも学校へ連れて行っていたかもしれない。

もしかしたら、泣くKに鉛筆を握らせて、タスクの優先順位を付箋に書かせていたかもしれない。

私がKに対して「すべき」と求めていたこと。

それは、私の執着。

この本がそう気づかせてくれた。

気づけて、本当によかった。

今、私は次に来る「きょうは休みたい」を、5回目までとは違った心境で受け入れられる気がしている。

来月か再来月か、それとも来週かもわからないけれど、おそらく過去イチ心穏やかに見守れると思う。

それでも、もしも誰かから「ズル休みは正しくないのにそれを肯定するなんて道徳に反してる」的なことを言われたら、私はまた悩むのだろうか。

悩むのかもしれないな。

でもこれは世間一般のズル休みの話じゃなく、私たちの家族であるKの話だから。

だから私は、主語を大きくせずに、Kのことだけを考え続けよう。

あとは「普通じゃない」とかね。もしかしたら言われるのかもしれない。

「普通」って、なんだっけな。

私はこの文章のはじめにKのことを「真面目な普通の子」と紹介したけれど。

本当は「普通の子」なんてどこにもいない。

「普通」というふんわりした曖昧な括りかたで、K個人を捉えることはできない。

KはKであり、Kでしかない。

今後も状況は絶え間なく変わり続けるんだろう。

けど、大丈夫。同じスピードで、私も考え続けるから。

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