デザイナーベイビーについて

こんにちは。今この文章を真夜中に書いています。実はこれがノート初投稿なのですが、なぜノートを始めようかということについては、そちらも記事が長くなりそうだから、今回はそれには触れずに行きます。

初投稿にデザイナーベイビーを選んだのは、NHKの2030年なんちゃらという番組で見て、いろいろ思うところがあったから。

デザイナーベイビーって、生まれる前に子どもの遺伝子を操作して「望ましい」人間を作り出すってことだけど、中国ではデザイナーベイビーの双子の女の子がすでに生まれていたんだね。知らなかった。医者は中国政府によって逮捕されたようだけど、その医者が世界中から有識者を招いて学会を行うことができる状況にあったってことを考えると、所詮表向きの逮捕なんだろうなと思う。

私は、デザイナーベイビーなんてけしからん!って考えていた。親が望むからって目を青くしたり肌を白くしたりするわけでしょ。子どもの容姿をカスタマイズするなんて、子どもの意思とは関係なく勝手に誰かに操作されて生まれてくるなんて、まるで子どもが誰かの所有物のようではないか。

でも私が考えていたのは容姿についてだけで、操作する内容が「病気になりにくい」だったらどうだろうか。完全に抜けていた思想で、考えが揺らぐ。

番組の内容うろ覚えだからあんま適当なこと言っちゃいけないんだけどさ、デザイナーベイビーについての対話が確かオーストラリアで行われていて、専門家だけじゃなくて学生とか市民とかも参加して意見交換してたところが一部映されていたんだよ。

ダウン症の子をもつ母親が「最初に子どもがダウン症だとわかったとき、ひどく落ち込んだ」って言っていた。この場面に思うことが多すぎた。思ってしまった。子を産む前にダウン症だということがもし分かってしまったら、それでも産むなんて迷いなく言える親がどれほどいるのだろうかと思う。「ダウン症だから産まないなんてひどい親」なんて、そんなこと、少しでも境遇が当事者に近ければそんなこと言えたりしないと思う。ダウン症の子と健康な子、命の重さは平等でも、育てやすさも、社会での生きやすさも全く平等ではない。だって社会は健康な人が生きやすいように作られているから。

最終的にその母親はデザイナーベイビーには反対の立場で、多様性を理解することが重要。ということだったけど、きっと「多様性」を求める人達の中でもそれぞれ「これは認められるべき/認められないべき」といった境界があるのだと思う。すべての人が認められる社会なんて現実的ではないと思う私は悲観的過ぎるのだろうか。みんなが「多様性!多様性!」と叫ぶとき、私は「その多様性ってどこまでなの?」と思っている。

「デザイナーベイビーに賛成か・反対か」と聞かれたとき、「病気にかかりにくくなるようにするのはいいと思う」という答える人がいるだろう。私もその一人だ。でも、その考え自体、健康な人以外を排除する構造をとるこの社会を肯定しているってことなんだよなあって気づくと、気づかぬうち優生思想に毒されてしまっているのだろうと思う。線引きなんて容易ではないですよ。

でも、私たちはそもそも競争社会にいる人達だから、すべての人間が平等である状態を望んでいる人自体多くないかもしれない。自分たちだってそんなに有利な状態で生きているわけじゃない、周りの人を気にかけている場合じゃないんだって思うことは自然だと思う。

誰かが完璧に加害者であるわけではなく、それぞれが自分の良しとしていることを行った結果、抑圧を受け苦しむ人がいる。もうこんなことを考えていると、もう自分は社会の部外者になりたい。ただの動物である人間がどういうわけか他の動物と線引きして、社会を作り上げて絶滅する様子を、ただただ部外者として見ていたい。でもそんなこと、少なくとも生きているうちはできそうにないから、生きていくしかないんだけど。

こんな感じで考えながらつらつら書く私のnote初投稿は幕を閉じます。意見交換したら最高だから、私のことを知っている人は個別にでも連絡ください。それでは。

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