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道辺日記(2024年5月16日)

7時前起床。毎朝アラームは5:20に設定している。それなのに気づいたら6時半くらいになっていて、だらだら布団から出られないのが常である。今朝は6時くらいに夫が起きて、昨日の私みたくシャワーを浴びていた。私は朝食を作るというわけでもなく、ただ布団の中でぼーっとしていた。私は朝食を作るためのアイデアも気力も思い遣りもなかった。そして、結果的には罪悪感で自分を追い込んでしまう。いや、罪悪感なんていいものではなく、私の心に渾々と湧き出でるのは「恥」だ。私の人生は「恥」と「見栄」の鎖を纏っている。それで身動きが取れなくなる。とにかく人間関係でもなんでも、自分の首を自分で締めるのが私の習性である。
結局夫と出来合いのアイスコーヒーを飲んで、家を出た。夫は私の顔を見て「自分はだめだとか思わないでね」と言った。近頃私が、自分はだめだと落ち込んでいたのを知っての、優しい声かけであった。素直に受け取っておこう。空っぽの胃袋にコーヒーを入れたせいか、歩きながら気持ち悪くなってしまった。吐き気がした。夫を駅まで見送った後、私はいつもの喫茶店へ行こうと思ったが体調と今日の予定を考えて(その喫茶店は近いというわけでもないのと、早く座って落ち着きたかったので)、駅ビルのマックで読書会のための作業をすることにした。『ニヒリズム』第一章の(ニ)までをメモにまとめて、9時過ぎに帰宅した。
ふと考えた。哲学的に生きるということは重い責任が伴う。哲学的に生きるとは、自らのうちに問いを掲げ続けることである。自由な生き方であるがゆえに、責任感も問われる。私は自由が苦手だ。それに今までの自分を思い返しても、殆どの言動に責任感のかけらもない。開き直ってしまって我ながら見苦しいが、それも私である。そんなことを考えたので、哲学読書会へ行くのが億劫になってきた。
10時半に家を出て、整体へ。中国人の先生の腕は確かである。生理痛に効くらしいツボを押してもらったのだが、くすぐったくて笑いを堪えるのが大変だった。表情が歪んだので「痛いです」と嘘を言ってしまった。体を触られるということは多少の緊張も伴うが、施術を終えた後は眠りから覚めたように、心身共にシャキッとリフレッシュできる。不思議だ。辛いとき誰かに背中を摩ってもらったり、自分で自分を抱きしめてあげると、その刺激により脳が活発になって癒される感覚がある。
一度帰宅してから、荷物を整え駅へ向かう。サイゼリヤでランチを取り、課題図書を読んだ。なんとか今日取り上げられる範囲を読み終えた。ヘーゲル以後、ヨーロッパで神や永遠の世界が歴史的産物であるに過ぎないと考えられるようになった。何故そう考えられるようになったのか。近代特有の科学技術の発展のみが理由なのだろうか。もっと訳があるのではないか。いかにしてニヒリズムが誕生したのか、気になる。西谷啓治『ニヒリズム』には、私の永遠の課題である、「誠実に生きる」という点についても触れられていた。ニヒリズムは、「自己の存在根拠をー歴史から与へられた自己の拠り所をー自ら否定することでもある。今や偽りとなったその拠り所を、自ら進んで崩し、自ら進んで自己の存在そのものを疑問符に化することである。そのやうにして自己の根底に虚無を表はならしめることが、誠実に生きることであり、その誠実さのうちで自己が自己自身になるのである。」とのこと。観想を捨てて自己を見据え、自己自身と一つになることなど本当にできるのだろうか。虚無を露わにする勇気。ニヒリズムに倣おうとするのは、やはりためらいがある。それは真に虚無を問題視していないからかもしれない。生きるということを直視していないのかもしれない。そうやって拙い内省をした。
15時に読書会会場へ着く。読書会は昨年の秋頃離脱してより、久しぶりの参加であったので、とても緊張した。頭が熱くなってきて、手の震えが止まらなかった。その場しのぎの頓服薬を飲み、笑顔で挨拶できた。しかし、緊張の割に、以前よりはっきりと質問や意見を述べることができたのは嬉しかった。頓珍漢な発言だとしても、拙い日本語でも、考えたことを伝えたいという熱がまだ自分の中にあることを知った。手の震えは止まらなかったが、それはそれで別に悪いことではない。手が震えて他人になんと思われようと、気にしないことだ。
参加者が集まる中、私は会場で、もしかしたらあの人が来るのではないかとドキドキしてしまった。素直な「楽しみ」という感情よりかは、「いらしたらどうしよう」という不安感を抱いた。結局あの人は来なかったため、私は安堵したのである。1時間半で読書会はお開きとなり、私は一人家路をゆく。突然、いかにも形容し難い寂しさが私の心に翳った。冷たい波に打たれたような感覚。人間、どうしようもないことばかりだ。私はあの人に会いたかったのだ。自分の惨めさを目の当たりにしても。醜態を晒しても。
過日、大学時代の恩師、Y先生にお手紙を出した。結婚の報告も兼ねて、取り留めのないことを書いた。それ以上でも以下でもないという今の自分を表現した。本日手紙を拝受したとのメールをいただく。祝福の言葉とともに、最近の講義の資料が添付されていた。私は帰りの電車内でそれを読み、ほろっと涙してしまった。ただ、嬉しかったのだ。この喜びがいつか私の中で消滅してしまっても、喜びのこの瞬間というものはとてつもなく愛おしい。
夫は会社の有志で会食のため、今夜の帰宅は遅い。

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