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道辺日記(2024年5月15日)

7時前に起床。シャワーを浴びている間に、夫が朝食を作ってくれた。焼きソーセージとゆで卵、そしてオリーブオイルのかかったケールのサラダ。食後にはコーヒーを淹れてくれた。私は最近、全く家事をしない。殆ど夫に任せきりである。夫は日中働きに出ているし、私は家にいたりいなかったりで充分な家事もしない有様だから、家はとても汚い。特に私の本やノートなどが自らのデスクは勿論、ダイニングやリビングのテーブルまでもを占領しつつある。いつかいっぺんに大掃除するのだと不甲斐なさに満ちた決意を繰り返している。
夫を最寄り駅まで見送り、私はその足でいつもの喫茶店へ向かった。そのチェーン店の喫茶店には、1年前くらいから平均で週2回は通っている。店内の温かな雰囲気も好きだし、ウェイトレスさんたちの接客も気が利いていて素敵だ。長居もある程度許容されているため、私は主にそこで創作と読書をしている。noteで投稿している詩は殆どそこで書いている。今日は明日からの読書会で取り上げられる、西谷啓治『ニヒリズム』を読み、メモを取って過ごした。
この本を読んでいる最中、私は色んなことを考えた。そもそも「虚無を感じる」とはどういうことだろう。自己や他者の存在の危うさを知ったときだろうか。あらゆる価値観がひっくり返ったり崩壊したりして、存在を脅かされた危うさ。道標を失った存在。それは大変厳しい現実だろう。それゆえに、自分の中に揺るがぬ軸を見出す人は強い。これがニーチェのいう超人だろうか。私は基本的に他人の評価の中で生きているので、随分息苦しい毎日だ。
最近は無性に「死」について考える。考えるというより、思い出す、と言った方が適切かもしれない。「いつかはみんな死ぬ」、「私も死ぬ」。そういう当たり前が、私には奇妙でくすぐったい。「死は最大の不条理である」と読書会のOさんは主張していたが、私はそうではないと思う。私にとって死とは道理だ。むしろ「生こそ最大の不条理である」と思う。何故死ぬのかは医学的見地から迫ることができるが、何故生きるのかという問いには答えが出ない。そういうものだと割り切るしか生きる道は残されていない。そういう諦めに導くのが「生」の不条理さを表している気がする。
色んなことを考えたつもりなので、その考えをまとめてノートを作ろうと思った。しかし、ペンを取った瞬間に私の頭の中は真っ白になってしまった。言葉や概念が私の手の内から滑り落ちて、粉々に割れてしまった。2年前の秋、精神病院に入院したその前後から調子が悪い。人と会話をしているときも、言いたいことが消滅して頭が真っ白になる。思索の連なりからセンテンスがするりと抜け落ちて、失語してしまう。伝えたければ伝えたいほど、私は忘れてしまう。そういうことで、私はノートを作ることができず、不完全燃焼のまま喫茶店を後にした。
11時頃帰宅し、昼食をとって昼寝をした。久しぶりに何の夢も見ない昼寝だった。15時半頃家を出て、書のお稽古へ。2時間弱充実した時間を過ごして、18時頃帰宅した。仕事終わりの夫が電車に乗るまで通話をした。彼は午後に低血糖の症状で動悸や発汗があったらしい。先日熱を出した病み上がりでもあるし、私は心配になった。彼にはいつまでも健康でいてほしい。20時頃から雨が降り始めた。雨が降る前に夫は帰宅。今夜は優しい雨だ。私は小さい頃から雨が好きだった。雨の匂いを嗅ぐとあの人を思い出す。

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