道辺日記(2024年6月13日)
5時半起床。ここ数日早起きができている。食後はコーヒーを飲みながら夫とお喋りをする。
よく私は、とあるアーティストの好きな1曲を延々と家で流してしまうのだが、それでも構わないのか、と私は夫に尋ねた。私が夫の立場であれば、それは耐え難いことだからである。私は他人の趣味に興味を持つことが少ないし、生活環境の居心地にこだわりがあるので、興味のない音楽を延々流されることは、おそらく私にとっては苦痛だと思うのだ。一方で、夫は「構わない」と言う。夫の態度にはいつも心の余裕のようなものを感じる。常に用意された大きな器が他者を受け入れる、そんな印象だ。それは出会った頃から変わらない感想であった。不思議でならないが、夫には我が無い。(無いと言い切ることには少し抵抗を覚えるが。)その我のなさを心配した私は夫と何度か対話を重ねたが、どうやら無理に我を隠しているということでもないらしい。子供の頃から決断することが苦手だったという夫と、我が強く、なんでも緻密に決めたがる私の凸凹が噛み合っているのかもしれない。しかし私は、夫が私に決めてほしそうな時でも、一度夫に意見を求める。それが我の強い者の責務だとも思っている。
駅まで夫を見送り、私は駅内にある証明写真機で証明写真を撮った。700円くらいで済むと思っていたのが、1000円の仕様しか選べずに弱った。躁状態で散財してしまう自分が300円を気にするのも少し可笑しいが。私は家に帰って書店のアルバイトに応募するための履歴書を書いた。珍しく志望動機欄が埋まる。少し歩いてポストに投函した。
14時半頃祖母の部屋を掃除しに行った。祖母に確認をするとやはり掃除はプロに任せることにしたらしく、私は風呂掃除と床掃除をして、お遣いで買ってきた物干しを渡し、最後のバイトとなった。
祖母と信仰の話になった。祖母は私を「弱い」と言う。(以前の)バイトを辞めたことは「負け」である、とも言う。私は自分の気持ちが上手く表現できず、祖母の力強い言葉に心が萎えてしまい泣きそうになったが、耐えた。あまりの価値観の違いに途方に暮れてしまった。祖母のやっていることは人格否定であるし、そうならば祖母のやっている信仰が人格否定の上に成り立っていると受け取られても仕方ないのではないか?自分の信仰の純粋さを語る前に「人間として」他人への配慮を模索するべきではないか?祖母のやっているものは、そもそも真の信仰とは言えないのではないか?......そんなことが頭に浮かんでも、おそらく私より先に死ぬであろう人にこんなことは到底言えないと思った。祖母のこれまでの人生を否定することは絶対にできない。とりあえずバイトも解雇されたし、もう気にしないことだ。
くさくさしたので遠くの公園まで歩いた。風が心地よい。シャウエッセンのような大きさのスズメバチに体当たりされて、怖かった。18時頃帰宅。夫は今晩は会社の都合で帰宅が遅くなるようだ。
コレギウム・アウレウムによるバッハ「フーガの技法」を聴く。バッハを聴くのは約半年ぶり。あの人の厳しい面影と、あの頃の私の心の輪郭が浮かび上がってくる。あの人も私も誰も彼も精一杯今を生きているという前提に立って、私も生きなければならない。また会う日まで。
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