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生きている奇跡

昨年、無事に還暦を迎えた。六十才。なってみると想像よりはるかに元気だ。むしろ四十代五十代よりも調子がいい。心身ともに、ふっきれた感がある。

大げさだが、よくここまで死ななかったなと、我ながら思う。

私はいわゆる“落ち着きのない子”。注意散漫というか、過集中というか。夢中になると他のことが見えないし聞こえない。それに、空気を読むのが下手らしい。一対一で相手の感情をぱっと察する能力が低いようだ。

この、私の私らしい個性に原因があるのか、小学生の低学年までに三回、大きなケガをした。

まず、幼児期に二回。一回目は三才くらい。歩いていて転び、目の上を切った。今もまぶたの上に縫った跡がある。三針か、四針くらいだろうか。物心つく前で、詳しい事情は覚えていない。母には、近所の野良犬に追いかけられて転んだと聞かされた。私は犬と仲良くなれると思ったが、犬は私を敵だと思った。それが私には判断できなかった。その後の人生を象徴するような出来事ではある。

二回目は五、六才。保育園の外遊び中、ジャングルジムのてっぺんに登ったら、先に遊んでいた男の子にどんと突かれ、落ちた。その子が先に登って、お山の大将として独占していたところへ、急に私が来たので怒ったのだろう。運悪く、落下した地面に、つけかえ工事中の半鐘台があり、後頭部をぶつけ、ざっくり切った。出血がひどく、母が病院にかけつけると、私の顔色が死人ように真っ白でゾッとしたと、その後も繰り返し聞かされた。この時も五針くらい塗っただろうか。レントゲンもとったが大事には至ってないという診断だった。

事件の翌朝、保育園の先生に連れられて、男の子が家に謝りに来た。その子の顔や名前、その時の玄関の様子まではっきり覚えている。先生が、こらえてあげてな、と言ったから、こらえん、許さん、と私は答えた。私はそういう子どもだった。私をつきとばした相手にも、行動の理由があったのだ。ジャングルジムをひとりじめし、誰にも登らせない強いこだわりが。今はそう思う。

三回目。小学生二年の時、高校生の自転車とぶつかり、口の中を五針縫う怪我をしたことがある。私鉄の郊外線と並走する国道の横断歩道で、私は、道路の向こうの友だちの家に遊びに行く途中だった。子どもの頃、私は、道路を渡るタイミングをつかむのがひどく苦手だった。遠くの車がどのくらいでじぶんのいる場所に到達するのか、それがよくつかめなかった。車が途切れ、えいやっと渡ったら、車はいなかったが、猛スピードの自転車がきて、私はぶつかっていた。

相手は詰襟の学生服を着た男子学生で、どこにどうぶつかったのか、私は口の中をひどく切っていた。だらだら血が出た。立派な交通事故だが、この時私にはそういう意識がなかった。私が真っ先に考えたのは、不注意をとがめられ、父親に殴られる、このことだった。そして、なぜか私は、相手の自転車が壊れてないかの方が心配で、申し訳なく思った。加害者はハンカチだったかチリ紙だったか、私に渡すと、そのまま自転車で走り去った。

私はそのまま友だちの家に遊びに行った。傷は深く、血が止まらなかった。

家に帰っても、私は事故のことについてしゃべらなかった。怪我の痛みより、父が怒り、殴ったり蹴られたりし、いつものように家が荒れるのが嫌だった。

夕飯の時間、なるべく口を開けず、奇妙な食べ方をしていたら、母にすぐに気づかれた。

「あんた、どしたんぞな。早う、見せとうみ」

母は、私の口の中を見たとたん、絶句した。

とっさに、私は、片腕をあげ、頭をかばう、防衛体制をとった。父に殴られると思ったからだ。でも、この時、父は私を殴らなかった。それどころじゃない、すぐに病院に連れていけ、ということになった。

父は自営の電気工事士で、電線やら工具やらが積んである仕事用のライトバンに私を乗せ、湊町を入ってすぐの角を曲がったところにある、いつもの外科に行った。なぜか麻酔をかけてもらえず、麻酔なしのまま縫合したが、とんでもなく痛かった。人生でこれ以上の痛い思いをしたことは、たぶん、まだない。私は出産を経験していないので。

いまだに、私は高いところにあがると、つま先がツンとするような感覚に襲われる。実際にあがらなくても、断崖絶壁の映像を見ただけで、足の先から尖った感覚が走る。そしてこれもいまだに、道路を渡る時は、完全に車が切れるまで渡らない。痛い経験が効いているのだろう。

身体を縫う最後のケガは、小学校四年生の時。父が原因のケガだ。そもそも、父のふだんの虐待もシャレにならないほど、ひどかったから、それで死ななかったことじたい、かれこれ運が良かったといえる。真夏に、布団にすまきにされ、押し入れに閉じ込められたこともあった。そして、虐待が原因だととらえているが、私は、とりわけ思春期から三十代半ばまで、じぶんを大事にできなくて自殺願望が強かった。よくまあ、だましだまし、六十才の誕生日まで生きたなとつくづく思う。

私の世代には軍国主義を刷りこまれた暴力親父、暴力母は珍しくもなかった。マンガ『巨人の星』の星一徹のような、ドラマ『寺内貫太郎一家』の貫太郎のような。もっと悲惨な経験をしている人はたくさんいる。だから、偉そうに人にお伝えするほどの教訓を得られるような経験をしているかどうかわからない。

ただ、最悪最低のひどい状況で、いっそ死んでしまおう、この際、誰でもいいから道連れにしよう・・などと、思いつめた時でも、とにかく、いったん、明日を待つ。それだけは言いたい。夜が明ければ、また風が変わる。前にも後にも進まないほど強い瀬戸の潮目も、時がたてば変わり、脱け出せる。

サバイバルだよ、人生は。



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