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文子さんと私

いつかくる別れの日を覚悟していた。突然ではなかった。じゅうぶんに別れを惜しむことができたのに、永遠の別れは、辛い。

亡くなってから、いっそう親しくなる人もいる。私にとって、曽田文子さんがそうだった。

文子さんと私は、出会ってからも、たまにお会いする仲だったけど、会えば何も説明しなくても心が通じた。同じ愛媛県松山市で生まれ、理由は違うが、同じ日本とはいえ、気候も人の気風も違う土地で暮らす私たちには、共感するものがあった。でも、こんな特別なつきあいになるとは思いもよらなかった。

文子さんから転居通知が届いたのはいつだったか。思いがけず住所はふるさと松山からで、何か深刻な事情があるのだと私は察した。文子さんは常々、柏崎に骨を埋めるときっぱりと仰っていたから。あれは、文子さんが、ちょうど今の私の年くらいだったろうか。その時は最愛の相棒で夫の恒さんもお元気だった。

心配になって、私が手紙を出すと、文子さんから速攻で返事が来て、いつのまにかペンフレンドみたいになっていた。そのやりとりの中で、はっきり病名は告げなかったが、重い病気と向き合っていること、そして、最後に何か創作を残したいことが、文子さんから私に伝わってきた。

そうして文子さんは絵本『ネコのきらら にじのうちゅうへ』(文芸社)と、もうすぐ完成する『さいごのスケッチBook』に取り組んだ。

最後に何か残したいの。そう投げかけれらた時、気づかないふりをしたほうが良かったのだろうか。いまだに私にはわからない。

浅はかにも、私は、今までの作品集を作りたいのかと思った。ところが、文子さんは違った。過去は振り返らない。前だけ向いていたい。文子さんは創作したかった。すごい人だなと私は思った。曽田文子という人のエネルギーはどこからわいてくるのか。

文子さんから送られてくる原画の描き直しに、描くことは、文子さんに、襲いかかる痛みも、ゆっくりと迫ってくる死のことも忘れさせ、楽しい、充実した時間をもたらしていると知った。何か描いている時がいちばん幸せ。文子さんは、そういう人だった。ホスピスにうつる直前まで、それは続いた。

文子さんの、この世からいなくなったら後をお願いね、というような言葉を遺言と受けとめ、私は文子さんの代わりに、編集者の人と確認作業を続けてきた。といっても、文子さんは病床で表紙の絵まで仕上げ編集者に渡していたので、私はその確認をするだけ。でも、文子さんは最後の最後までねばって構成を決めたので、編集者の人は大変で、整理に時間がかかった。

あれから半年、天国の文子さんから、ぽつりぽつりとやることが与えられ、私は寂しさが紛れていたが、とうとうそれも終わり。今は本の納品を待っている。あとは発送作業のみ。そうなると本格的な寂しさがやってくる。

レイアウトのチェックや校正で、繰り返し、文子さんの絵や文章を読んでいるうちに、私、そしてたぶん出版社の担当者や編集者や校正者の方や、関わったすべてのスタッフさんも、文子さんと心を通わせることになった。

文子さんのおいたちや、若かりし頃の夫・恒さんとの恋、まるで異国のような雪国で、好奇心いっぱい、良き人々に囲まれた豊かな人生。そして、二度の震災、最愛の人との永遠の別れ、ご自身の病気。最晩年の心境まで、強く深く伝わってきた。

文子さんは多くを語る人ではなかったから、亡くなってから親友、真友になれた気がする。私とはこれまで交流のなかった文子さんのお友だち、ご親族とも交流が生れ、みなさんすばらしい方ばかりで、文子さんという人がさらに立体的になる。

とりわけ、この数か月は、文子さんが常に私の内側にいるような気分だった。最後の最後には、文子さんに導かれるような、不思議なできごともあった。

文子さんは神様の側でわっかをつけた天使になるのかなあ。

秋晴れの朝に召されし笑顔かな 
もてあます悲しみひとつ杜若

                写真・文章©敷村良子

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