自由に対する束縛、脅迫による自責観念

善や権利について考える時、自分はずいぶん優しい人間になったものだと我ながら感心する。市中に落ちる動物の糞や虫に吸血された跡を見ると閉口はするが、それ自体によって彼らを駆除してやろうという気は一切起きる事がなくなった。

獣類は当然のこと、虫類にも権利は天賦されている。もちろん、(現行法上は)彼らを殺すことで刑罰に問われることはないだろうし、彼らのささいな行為に腹を立て、叩き潰そうがどうしようが、それは自由意志に基づく自由行動であり、制限されるものでもなければ、制限のしようもない。

なぜ自分の思想体系は、生物権思想にフィットしたのか、なぜこの思想体系にだけ、これほどまでにリンクする事ができたのか、

私は特別動物愛好家でもなければ、幼少期に動物に対する強い思い出があったわけでもない。

全く特別ではないのだ。

我が家にバロン(犬)が来てから、愛犬家という形にはなったが、世にいる無数の愛犬家ではなく、なぜ私だけが(だけかは分からないが)、思念世界(物理世界に対応する?別の次元世界を称する造語。宇宙、宇宙外時空の数多の思想がプールされている)から先進の思想を受け取れるようになったのか、

特に理由はないのかもしれない。

世の中には「突然」全く別ベクトル、新規の思想体系を思いつく人がいる。
その中には運良くその思想を掬い上げられ有名になった人もいる。(もともと何らかの知名度や発信力があって有名になるべくなった者もいるだろう。)
確信はないが、ルソーやアインシュタインはそうなのではないだろうか。
ルソーの社会契約説(の原型となった論文)やアインシュタインの相対整理論は、とてつもなく革新的で真新しい発見だったのであるが、両者ともちょっとしたキッカケから突然思いつきをしている。
人類史における革新的な発見は、長年思考を重ねた末に構築された理論というわけではない事が多いと思う。(詳しくないので断言はできないが)

自分もある時から権利に対する思想、善に対する思想を、特に生物権に結びつくような思想体系を主に歩いたり、自転車を漕いだりといった日常動作の間に受け取る(突然パッと思いつく)ようになった。

だが、私が思念世界とリンクしたのは、何の理由もないわけではないと思う。

社会におけるエリート候補生、キャリア候補生から、早々に脱落してしまった私には、知識だけはあるのにそれを活かす場がない、活かす能力がない、人間社会で何のインパクトも残せない、何なら自分でお金も稼げない、親に毎日白い目で見られる、周りが自分の悪口を言っているんではないかと疑心暗鬼になる(今思えば思いっきり精神病ですね)

人生におけるドン底時代だったが、ここで得たものは今では自分にとって大きな財産となった。

まず、救う神などいないという事が分かった。学生の頃は、学費を払っているからだろうが、なんだかんだ言って大人が気にかけてくれるような環境があった。しかし、社会人になった瞬間、労働によって金をもらう側になった。金をもらうという対価のために、地面に這いつくばって上司の靴だって喜んで舐めないといけない。お客様は神様という日本のビジネス慣習では、こう言わんばかりに客は高圧的で、上司は搾取的だった。この人類社会に対する強烈な違和感、疑心、そして敵意は、生物権という人類社会にとって未知のものが正しいと思える原動力、人間社会は確実に間違っているんだという根拠を私の心に与えてくれた。

次に、弱者の気持ちが分かり、弱者の立場に立てるようになった事。つまり、弱者の心理に自己投射する能力が身についた事である。私は人間社会と、いわゆる強者を憎むが、全ての人間を敵視するわけではない。かつての(今も?)私のように人間社会にあっての弱者の苦しみが私には微小ながら理解する事ができる。それは、人間社会における物言わぬ消耗品である動物諸君だけではなく、弱者として存在するホモサピエンス種諸君に対しても同じだ。

弱いものを救う方法はあまり多くない。一つは権利思想であると信じている。この傲慢な人間社会においても、権利思想は数々の聖人の血によって獲得され、権利の範囲は白人様からアジア人、アフリカ人へ、障害者へ、ますます拡大中である。私たちは権利のために戦い、国家や自治組織に対して、その権利の保全を要求できるのだ。だが、なんだかんだ言って「人間」である彼らが権利のために戦うのと、人間の様式で言葉を発し、行動を起こす事ができず、人間の規定するところの権利思想を知らない動物たちにとって、権利を自ら主張することはほぼ不可能である。悪である人間の中の少数の善人は、人間社会によって搾取され虐げられ続ける動物たちのために権利の闘争を代理する必要がある。そして、人類社会はその代理を由のないことだとして阻却しようと躍起になっているのだ。

人間は、その人がどういう環境の中で、どういう生活をしようと、人間であるだけでこの社会において非常に優位な地位としてその人生をスタートできると言える。多くの人間は生まれながらに生態系の上位存在であり、強者である。人類社会の慣習と共に育ち、我々は動物が下位存在であって、人間に利用される物であるという既成概念を疑うことを容易には思い至らない。

この境地に来るには、人間は一度、弱者に落ちてこなければならないのかもしれない。

確かにエリート人生を歩んだ私のIFは、おそらく動物の権利になど関心を抱かないまま、最高の人生を歩んでいたかもしれない。
(どちらが悪夢かは棺桶に入ってみないと分からないが、今の自分に今の自分は満足していたりもする。辛いことも多々あるが)

そして、最後に、法律に出会ったこと、である。人生ドン底、被雇用者人生だけは絶対ゴメンという状態の自分は、起業することを考えた。まずは、経営学を履修していたこともあって、もっとビジネスチックな起業を模索していたが、ネットサーフィンの末、資格を持って独立開業するのが起業法の中でもなかなか土台がしっかりしてそうだと判断して、コスパの1番良さげな行政書士を目指し始めた。

学生時代に一瞬司法試験をやっていた事があるが、法学部でもなかったため、法律はほぼ初心者だった。行政書士のテキストではじめて法律という者に触れた。法律というと重苦しい感じを抱いていたが、なんだこんなもんかとか思いながら進めていたが、

憲法の人権思想に触れて、法学の素晴らしさに感動した。生きる価値もない自分、虐げられる自分、悪口を言われる自分、それは仕方のないことと思っていた。

だが、人には権利がある。生きる権利がある。自己実現の権利がある。それを否定することは誰にもできないのだと初めて知った。

人がここまで来るのにどれくらいかかったのか。

世界史でフランス革命だ、なんだと習ったが、

ああそうか。現代のここに繋がるのか。

社会科のあらゆる知識が一点に集まってくる。

法律があれば、弱くても戦える。

そう感じさせられたのは、弱者になり、そこから抜け出したくて法律学習に手を出したこと、そこで権利思想に初めて出会ったこと、世界史、倫理、政経といった高校時代に真面目に勉強していた知識が一点にまとまり、しょうもない人間の集まりの中で燦然と輝く人権規定の概念を獲得できたこと、そしてフランス革命の志士たちのように権利を武器に戦う事ができるということに思い至ったことにある。

あの頃に比べ、自分もそこそこ有能になり、そこそこの仕事にありつけてもいるので、自分の無為徒食性についての当たりも和らいできてはいるが、それがある種自分にとって脅迫性を持った物であったため、時に自責観念、強迫観念に駆られた。私はそれから逃れるために何かをしないといけないといつも自責していた。

だが、権利思想体系との対話を重ねた私に、人類社会、または現在日本社会におけるアホみたいな伝統に従順する理由は全くない。

私の思考はすでに伝統主義を排し、集団主義を脱却した。私は私の思うように意思決定し、行動する。

何者にも縛られない。

だが、ある日それでは問題がある気がしてきた。

以前の自分には、自由に対する束縛、小言という名の脅迫があった。私の自由や権利を阻害しようとする圧力が存在したのだ。

最近はそれが幾分和らいでいる。

もちろんそんなものは今動物が受けている苦痛や悲しみ、怒りとは天と地の差があるクソみたいな感情の起伏に過ぎない。

しかし、私にとってそうした束縛の種類は、確かに阻害されし者の苦しみに思いを致す装置の一つだったのだ。

居住地の行政委員に応募してみたり、今年は選挙に立候補してみようと画策したり、

それなりに地位を得られる可能性がある今年であるが、

ある程度の地位や権力を得てしまった自分、それに付随して、権利思想体系とは別方向のやりがいや生きがい、まとまった収入を手にしてしまった自分、、

そうした自分が、今のようなパッションで権利のために思考を続ける事ができるのか、

最近はそんな事が少し気になっている。

官僚がみな国のためにという初々しい熱意を持って就職し、知らず知らずのうちに汚職に手を染めていくように…

私の熱意も、

私がこの社会でそれなりにうまくやってしまったら、

消えてしまうのだろうか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?