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短編小説『東京ブレイン』

世界はモノで埋め尽くされている。

ここは東京。
存在感を競い合っているように聳え立つビル。
自然を感じることのない皮肉な街路樹。
縦横無尽に走るのを辞めない自動車。
視界には、無数の人間がいる。

一見、雑にモノが散りばめられているこの街は、それぞれに名前があり、それぞれが存在意義を主張している。

例えば、ビルは存在感を放って、鎮座しているわけではない。
ビルには、役目がある。
住宅ビルとして役目、商業ビルとしての役目、オフィスピルとしての役目、大学や図書館などの教育としての役目、郵便局や警察署などの公共施設としての役目がある。
ビルの役目は社会のニーズや地域の発展に応じて多様化している。このようにビルは多くの役割を担い、その責務を全うしている。

街路樹も同じだ。
彼らは、無意味に起立しているわけではない。
街に緑の景観をもたらし、美的効果を演出する。
大気の浄化に寄与し、環境に貢献をする。
歩行者にとって視覚的な目印となり、歩行者エリアと車両エリアを区別する役割を果たす。

東京は、日本の経済の中心地である。
全てが先進的であり、役目を失っても、必ず代理はいる。
ビルの体内が倒産して、役目を失っても、すぐに別の第三者がビルの体内に寄生する。

街路樹も枯れたり、腐っても、新しい街路樹として生まれ変わる。
モノの蘇りが許されているのは、ここが東京というフィールドだからである。新陳代謝を繰り返す東京は常に新しい生命を求めている。
役目を失っても、必ず役目を取り戻す。

ここは、京都。
かつての日本の首都である。
今では日本の伝統的な観光地として、風情ある街並みが特徴的である。
清水寺や嵐山その他の観光地では、休日だけでなく平日でも大きな賑わいを見せている。ここも都心部を見渡せば、役割を持つモノが沢山存在している。しかし、都心部から少し離れると急に人間が減り、音も静寂になる。

空き家を見つけた。
大きな家だ。雑草が窓や扉に生え、不穏な貫禄を演出している。
かつては、人が住んでいたのだろうか。
一人暮らしにしては、贅沢すぎる広さだ。
色んな想像が広がる。

この空き家は、役目が来るのを待っているのだろう。
ここが、東京ならこの空き家に役割を与える人がすぐに来たのだろうか。

この空き家だけでなく、この辺りは役目を待つモノが沢山あった。
曲がった電柱。根元から上を見渡す。
錆びている。茶色より黒に近い。
未だに電力供給しているのかを問いたい。
定年を超えたと言わんばかりの、ただれ具合だ。
もう休んでいいのに。
いや、彼らは生涯役目を務めるだろう。
そのために生まれてきたのだから。

東京なら、この空き家と電柱を長く放置はしないだろう。
役目を失ったものや人気を終えたモノをすぐに交換してもらえるフィールドだ。
東京なら・・・東京なら・・・。

いや、東京でも役目を失っているモノは沢山ある。
それは都心部から離れた場所。
京都と同じだ。
先進的なフィールドとそうではないフィールド。
つまりフィールドとして価値があるかないかである。
価値のないフィールドで、モノが生まれても役目を失えば、次いつ新たな役目が来るのかはわからない。
しかし人間の間では「伝統的」とい都合の良い言葉がある。
先ほどの電柱がそうだ。役目の交代をせずに、長年任期を全うしている現役のモノは、人間が古くからの歴史として、性癖が心を揺らし、“伝統的”や“歴史的”などの表現をする。
東京のモノはある意味、モノの入れ替えが激しく、役目の成績が不十分であった場合、すぐに役目を変えられる。これまでに役目の入れ替わりは「蘇り」を捉えていたが、それは名詞として考えていたからだ。
ビルも街路樹も名詞として捉えると、役目の入れ替わりは「蘇り」である。
しかし、固有名詞として捉えると役目を失うことは「死」を意味する。
ビルの名称“株式会社×××”は倒産した。
次の役目をもたったビルの名称は“〇〇〇研究所”だ。
名詞のビルとしては「蘇り」を果たしている。
固有名詞の“株式会社×××”は「死」になった。
1つの街路樹に“ナガネギ”という固有名詞をつけたとしよう。
数十年の任期を果たした“ナガネギ”は次に同じ場所に立つ“シロネギ”に役目を託した。
名詞としての街路樹は「蘇り」を果たしたが、“ナガネギ”は「死」になった。いずれ“シロネギ”も同じ運命になるだろう。

一方、東京から離れた田舎には、何百年、何千年も役目を務める街路樹の“ヤバネギ”がある。名前は、何百年、何千年前の人間がつけた。役目を入れ替える理由がなく、何世紀も生命を維持している。

人間も同じだ。東京で仕事を失っても、必ず他の誰かが同じポジションにつく。1人の友達と縁を切っても、すぐに別の友達ができる。いくらでも替えがきくのだ。
しかし田舎に行くほど、替えのきかない事があるらしい。人間の供給が足りていない。東京一極集中の末路だ。末裔が役目を終えれば、継ぐ者もいない。ただ人間として見れば、人1人の価値は何の価値もない。
地球としては、人間1人の「死」は大した問題でも何もない。
すぐにどこかで、誰かが「誕生」し何かしらの役目を果たす。
しかし固有名詞として見ると、情が湧いてしまうのが人間の性である。
ヨシダさんの「死」に多くの人間が悲しむ。ヨシダさんの生涯を振り返ったり、葬儀を行う。ヨシダさんはヨシダさんであり、替えなどいない。
それは、人間に情と異常が生まれているからである。
本来、人間の「死」は正常であって、ごく自然なことなのに。

ここは東京。
存在感を競い合っているように聳え立つビル。
自然を感じることのない皮肉な街路樹。
縦横無尽に走るのを辞めない自動車。
視界には、無数の人間がいる。

世界はモノで埋め尽くされている。

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