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打てるだろうか。そのサイクルに終止符を、今回こそ。 私はやりたいことがわからない 一番古い記憶は中学の頃。都内に通っていた私は、最寄り駅から5分ほどで家に着く。途中の桜並木の坂道で私はすでに嘆いていた。 「私って、自分のやりたいこともわからないんだ」 はたと気づいてしまった。どこにも手が届かない真空の暗闇へ突き落とされたようで、所在無く浮く。呆然と涙が流れた。その真空は印象深く、しばらく私の夢や描く絵のモチーフになっていた。 その次の記憶は大学生の頃。先日のn
タイムラインに、自分の書こうとしていたようなnoteが流れてくる。以前だったら、気落ちしていた。それ私が書こうとしてたのにとか。それって、なんて無茶な注文。早押しクイズじゃないんだから(笑) *** その根底には自信のなさがあったと思う。私は自分にオリジナリティや個性を過剰に求めていた。他人にはない考えを持っている人、先に発表できた人が優れているのだと思っていた。 (ちなみに「思っていた」と私が過去形で書くとき、完全な過去である時はほとんどないと思う。これは過去形で表
note書きの中で、自分の記事を読まれたくないという人はいないだろう。影響力を持ちたい、認められたい、お金を儲けたい、さみしさを埋めたい。人によって様々な欲求が渦巻いている。自分の脳内をアウトプットしたいからと書き始めても、読まれているかどうかはどうしても気になってしまう。もちろん、私も。 というのも、前回のスキでもないのになんでスキって言えるの?のPVが好調で、今まで書いた記事の中でも3位に入っていた。私の記事には珍しくコメントも複数名の方からいただいた。(コメントは比較
noteには「毎日更新」とか「毎日note」とかいうハッシュタグがあって、多くの人に使われているようだ。私も使わせてもらっている。 いわゆる「毎日更新」という行動は私にとっては重荷に感じるほうで、最初そのタグをつけた時はちょっと勇気がいった。でも、実際始めてみると、noteはとても書きやすくて、結局毎日楽しく書いていた。 それでもやっぱり、書けない日も発生した。 忙しかったからというより、書く精神状態にならない、という方が正しい。書きたかったネタは頭の中にあるけどそ
メアドの数だけ名前を作って、使い捨ての人間関係で生きていたあの頃、身体中が悲鳴をあげて何かを求めていた。 性的な関わりも、私にとってはコミュニケーションの一つに過ぎなかった。むしろ、相手とすぐに深く関われてコスパが良いくらい。目が合う。話す。体に触る。体に入る。どうして「ここから先はちょっとダメよ」ってしなきゃならないのか、正直よくわからなかった。それって頭がかたいだけなんじゃないの? 会ってすぐでもセックスしたら、タメ語で話せる。心を許せるその瞬間は喜びだった。心の、ほ