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ミッシェルはもう聴けない(中)

30歳。
アベフトシが死んで、わたしが淡く夢みていたミッシェル再結成は叶わなくなった。
かといって、チバ、キュー、ウエノそれぞれのバンドを追う熱量はなくしていた。
あんなに好きだったゆら帝の坂本慎太郎も追わなかった。

時々アベの鬼のカッティングを思い出す


育休中何をしていたかあまり覚えていないが、目の前のことに必死だった。ぱわわっぷ体操はめちゃくちゃ踊った。まだほとんど歩かない子を連れて、毎日公園に行った。
とにかくこれからまた仕事復帰するんだから、今は最高にお母さんらしくいたいってずっと思っていた。

よしおお兄さんって表情管理最高だった

冬がきて、わたしは、長子が一歳になる日に泣きながら職場復帰した。これほどまでに嫌さを前面に出す人はあまりいないようで、みんなわたしを見て笑っていた。
もう一人子どもをもうけたかったが、すぐに二人目ができた人がクソミソに言われてるのを聞いてビビり上がったわたしはなかなか決心がつかず、そこから二年くらいあとにやっと二度目の産休に入る。

四六時中子どもと一緒でアンパンマンとプリキュアとおかあさんと一緒しか聴けず、音楽への興味は枯れたが、仕事に行かなくてよくて大変幸せだった。
閉塞感で、大人と話したいなどの気持ちから早く仕事に戻りたい人もいるようだが、わたしは全くそうではなかった。赤ちゃんも可愛かったし、長子は性格が自分と似てきて鏡のようで辛かったりイライラしたりしたが、その分なおさら可愛かった。ワンオペはもともとからで苦にならず、毎日を謳歌した。

なぜか子どもというものは車に乗せるとすぐ寝るので、買い物の帰りにチャイルドシートで二人が眠ると、アンパンマンをFMにかえて「今こんな曲が流行ってるんだなあ。」なんて、時々世間を遠くに感じた。

二人目は職場の都合で少し早く、10ヶ月で復帰となった。また大変嫌そうに復帰した。今度は「ほんとに働きたいのか。」と聞かれたので、「もちろん働きたくはありません。でも働かなきゃなので頑張ります。」と答えた。正直過ぎると嫌がられた。

保育園はしばらく二人別々で送迎が苦痛の極みだった。アナと雪の女王が長子の保育園で爆発的にヒットして、寝ても覚めてもアナ雪関連の音楽を聴かされて発狂するかと思った。しかし、素直な声で歌がうますぎる松たか子と神田沙也加は圧巻で、思わずペンになりそうなくらいだった。

とにかくめちゃくちゃに流行っていた…


歌が大好きな長子は、かけ合いのある歌の相手を求めるので、頑張って練習した。
アナ雪ブームはそれはそれは長く続き、年長の生活発表会は「アナと雪の女王」の劇でアナとエルサが7人づつ居るカオスの中、長子は姉妹のお母さん役で明らかにテンションが下がっていた。しかし長ゼリフを滔々と披露したため、ママ友の間で「えなりかず子」の名を欲しいままにし、わたしは誇らしかった。もちろん彼女がそれを知るのはそこから5年後くらいであるが。
「えなりかず子」はなかなかの破壊力だ。そして、歌はかなり上手く歌えていたので、わたしが相手をした甲斐があったと思った。
歌を続けている長子は今もわたしに、主旋律を歌わせたり、鍵盤を弾かせて音取りをする。自分でしろと思う反面、大事なコミュニケーションとも思うので、心の中でセルフビンタで気合いを入れて続けている。

子二人ママ業にも少し慣れてきた頃、わたし含む6名は、仕事の宴会の出し物で、職場の社長にあたる人の命を受けてバンドを組まされた。もちろんその部分は無給だ。なんでやねんと思った。
軽い気持ちでお遊びで組んだ割には、途中で音楽性の違いに憤慨。
我ながら大変めんどくさいやつだ。だがもう十分な大人で、期限つきユニットなので我慢我慢。
エレキは上手い人がいたため、鍵盤をやった。正社員が未就学児二人を抱えて深夜練する鍵盤は圧倒的に練習不足。やっぱり下手だった。その上さらなる睡眠不足で老けたので慰謝料を払って欲しいと思った。

当然だしみんなそうなのかもしれないが、ストレスを発散することが難しい日々だった。フェスは毎年1.2個行っていたから、暑くなれば「フェスへ行きたい…。」と思ったが夢のまた夢だった。
実際フェスを再開したのは長子9歳のときに「家族で日が暮れてから」であった。それでも熱中症と子のトイレが気になりすぎてまあ当然楽しめなかった。
死ぬまでにフジロックに行ってみたい。足腰が大丈夫なうちに。

Rush ballで毎年Dragon Ashをみていたのが懐かしい

夫とは結婚前にも一緒に行ったEgo wrappin'のDance Dance Danceという夏の野外イベントに何度か行った。
Ego wrappin'は、好きで結婚式で「byrd」を使ったくらいだ。のちに歌詞を見てめでたくない感じなのを知ったが、曲調があっていたし英語だからわからないだろうし後悔していない。

夏の夕暮れで最高なイベントだった


飲みながら良恵ちゃんの素晴らしい声と、やしきたかじんくらい溜めすぎて途中まで何歌ってるかわからない歌い方を堪能するのが気持ちいい。
周りもそのクチのようで、曲の合間に一時退場して何度も列に並び氷結を買った。そのため後半は尿意との戦いで正直あまり覚えていない。
夫婦でいくと、飲み過ぎ、踊りすぎは相手を幻滅させるので気をつけないといけないなあと反省したのでそれから夫婦では行っていない。

でもこれからまた、「好きな音楽と大人らしく程良い距離感で付き合う日々」が始まる予感にワクワクした。モッシュダイブのある過酷なライブ現場はもう無理だし、徹夜でぴあの近いロケット広場に待機したチケッティングは、既に先行抽選方式に変わっていて、わたしがお母さんしている間に時代が変わったと痛感し、新しい音楽との付き合い方を見出すより他なかった。

怒涛の毎日でところどころ記憶が曖昧だが、その頃長子の保育園で仲良くなったママ友たちは、子ども関係なく今も仲良くしている。
地元の行事ごとでその仲間と歩いていると、相当やさぐれて見えるらしく、職場の人から「仕事中と違い過ぎて怖くて声かけられなかった。」と言われたため、今後少し離れて歩くようにしようと思うが。そのくらいわたし以外は見た目がイカつい四人組だ。

まあその中でも音楽の趣味がややサブカル寄りの子と、CHARAを見に行こうという話になった。
ちょうどCHARAは多分50歳になるくらいで、「声が出ていない」とあちこちで言われていた。もともとウィスパーボイスだが。
あとで酒を飲むためだけに、あえて電車で向かったZeppNambaには、彼女の世界観がたっぷりの幻想的なセットが施されていた。
変わらぬキュートで唯一無二のルックス。個性の塊の声。大沢伸一が「彼女の歌は上手い下手ではない」と言っていたのがしっくりきた。
歌いながら「わたし、声でてない?」と聞く彼女に胸が痛くなった。なんとなく抱きしめたくなった。

とにかく存在が独特でとても「女」。いい意味である

若いときのように声が出なくてもいいと思った。CHARAに熱狂することはなくとも、この先もずっと好きだとなんとなく確信した。
好きなタイプの女性なのである。
わたしがなりたくてもなれないタイプの女性なのである。
余韻さめやらず、帰りに大国町でおでんをつまみながらしこたま飲んだ。あのCHARAだって年をとるんだから、わたしたちもオバハンになるわとくどくどと語り合って意味なく大笑いした。
17歳から聴いていたCHARAは、20年くらい経ってもCHARAで。もしかして歳をとることなんて怖くないんじゃないかと、夢を見させてくれた。自分がCHARAのような年の取り方をするわけないのに。
ママ友はどこでも豪快に寝る人だが、帰りの電車も寝る顔を見ながら、久しぶりに友達とライブに来たなあ。来れる状況になって嬉しいなあと思った。そして、サブカル女子はサブカルおばはんになるのだな、と酔った頭で考えて納得した。

サブカルおばはんでいることを完全肯定したわたしは、この後禁断の実を貪ることになる。その実は突き抜けたセンスで色んなところにちらちらとしながらも、絶対にメインストリームには入らない。それが好きと打ち明けるときに小声になってしまう、そんな物だった。

to be continued

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