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いなくなるのは「誰」なのか

Vtuberのオタクです。
過敏性「卒業」「引退」「大事なお知らせ」症候群です。これらのワードを見かけると、心に蕁麻疹が出る病気にかかっています。
先日、蕁麻疹トリガー単語集に「契約解除」が加わりました。

コトの経緯を考えると、この結果を迎えるしかなかった、致し方なかった部分もあったかとは思いますが、「潤羽るしあ解雇」は、正直とてもショックでした。

ただ、ふと思ったんですけど、一体何がショックなんでしょう。

桐生ココ会長「卒業」の時もショックだったんですけど、あの時も、一体なにがショックだったんでしょう。

卒業や引退の名のもとに、活動がなくなってしまうVtuberは、悲しいことに日々たくさんいらっしゃいますが、彼彼女らが「いなくなる」って、どういう状態を指すのでしょう。

例えば、上記で名前を挙げた2名は、いわゆる「中の人」の存在がほぼ公ですし、「中の人」での活動もしてますよね(会長は特に)
「いる」わけですよね、中の人を「魂」と捉えるならば、卒業しても引退しても魂の存在は継続している訳です。

でも悲しい、引退したらいなくなってしまう、そう感じる。
それはやっぱり、Vの者を構成する要素として、「魂」の存在はあくまでも一要素に過ぎない、ここに起因するのかなと思いました。

中の人、魂、オリジン、呼称の幅は広がりつつある昨今ですが、いわゆる「演者」として存在している人のパーソナリティは、そのVを構成する要素の大部分を担っている、ように最初は感じていました。
ゲーム配信や雑談配信など「配信業」を専業にしている人ほど、中の人のもつパーソナリティは、そのVとしての人気に直結しているように見えます。

ただ、どれだけ大事な部分を占めていたとしても、それだけではVの者ではないんですよね。

あの魅力的なビジュアル、我々リアルに生活してる人間とは異なる見た目をもっている、バーチャル空間の存在であること、結局この部分が、構成要素の一部であるとともに、根幹でもあると感じます。

自分たちととても近いところにいるようで、決して手の届かない次元に存在している、そういう認識をもたらしてくれる、そんな存在を僕はVの者と認知しています。

ビジュアル完璧なキャラクター、面白い/魅力的な演者、どちらが欠けてもVの者としては成り立たず、その両方の要素で、とても不安定なバランスで絶妙に成り立っている存在がVの者。
そんな存在が「いなくなる」ということは、どちらか片方が存在し続けたとしても、もう「いない」んだなと、当たり前のことを、今更噛み締めた次第です。

Vtuberという存在が出始めた時に期待されていた未来とは、だいぶ違う方向に世界は動き出し、また自分自身も、彼ら彼女らに期待していることは、当初とは変わってきたように感じます。

これからも幾多の出会いと別れが待っていることでしょう。
出会う度に喜び、別れる度に悲しむ、当たり前の感情を、当たり前のように享受できるよう、これからも、僕はVtuberのオタクです。

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