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高瀬 隼子 いい子のあくび

高瀬 隼子 いい子のあくび



わたしがわたしのために正しいことをしたお話です。

「いい子のあくび」、「お供え」、「末永い幸せ」の3遍が収録されています。社会に適応してがんばっている、でもなんか違和感を抱えながら、割に合わないと思いながら懸命に生きる人たちの物語。

前作「おいしいごはんが食べられますように」では、ある立場からの善意といわれれる行為を受け入れなければ、バッシングされ排除される様が描かれました。今回は「わたしのわたしのための正しいこと」が狂いとされる際を描いたと思います。

こちら「いい子のあくび」は主人公直子のお話、歩きスマホをしてぶつかってくるヤツらをよけ続けるのは、なぜいつもわたしだけだ!と思い、彼女はぶっかつてくる奴らを避けなくなるお話。なぜって、それが「わたしがわたしのために正しいこと」だから。

彼女は日々モヤっています。
彼氏に対してモヤるわけです。
「直子の話、ためになるよ、ほんと。
生徒の中にはいろんな事情で中学卒業したら就職しなきゃいけない子もいるし、おれは学校のことしか分からないから、直子みたいな一般企業でがんばってる人の話が聞けて、すごく助かってる」と熱心に聞いてるのですが、ここで消費されてるってモヤわけです。
こんなモヤりはなるべる心の億そこにしまうもの。いや、周りからしまわされているもの。

「わたしだけのものだったはずの、わたしのストレスや苦労や不満が、教育のために消費されていく。大地が真剣に話を聞いてくれようとすればするほど、つけっぱなしにしているテレビみたいに聞いてくれる だ けでいいのにと思う。」
たぶんこの気持ちをストレートに表現すると、こう言われると思います、「性格悪い、感じ悪い」
でも消費されて、消費されるものを提供できてよかった思う時もあるようです。ここが人の心の複雑さだと思います。そんな人の心をこう描写します。

「心は、どうしてこんなにばらばらなんだろう。ばらばらで、全部が全部本当であるために、引き裂かれるというよりは、元々ばらばらだったものを集めてきて、心のかたちに並べたみたいだった。ばらばらのものは、パズルのピースじゃなくて石ころで、だからいくら隙間なく並べたってぴったりとははまらないし、こつこつ音がする。 だけど別に石は痛くない。痛くもかゆくもない。」

この描写が高瀬作品の魅力のひとつだと思います。他作品でも描かれいますが、家族や学校となどで関係を結ばざる得ない人々からの抑圧はきついものがあります。自分の心でさえも、ピタリとハマることはないのに、他人となんてハマりようがない。

「わたしがわたしのために正しいこと」は誰にも知られていないならない。直子は側から見ても善行と思われことをやっても頑なのです。

例えば、道端で苦しんでいるっぽい老人に声をかけて世話をする。それでもこう思うのです。
「ちょうどよくできた。この後で、あのおじいさんがどうなろうと、知ったことではなかった。わたしは通行人Aであるところのわたしがすべきだと思うことを全部した 。
家に帰るとわたしはひとりで、今日わたしがした、おそらくは「善行」と呼ばれることを、わたし以外の誰も知らないのだと思いながら、お湯をためてお風呂に入り、缶ビールを飲んだ。いい気持ちがした。 誰も知らないというのが本物である感じがしたかった。」

そんな直子も割りの合わなさと格闘しそしてある決意をする。
歩きスマホをしてぶつかってくる人をよけないという決意を実行に移していくことになります。
その実行はおおごとを引き起こすことになります。でも、直子にとっては「わたしのわたしのための正しいこと」なのです。だって割に合わないのだから。
葛藤しつつ、直子は心の中で叫ぶ。
「だって割に合わせただけだから。いいとか悪いとかじゃないから。 わたしはわたしのぶんだけしかやりたくないから。全部背負っていくのは嫌だから。」とても共感してしまう自分がおりました。こんな感情を抱いた人は多いのではないでしょうか。

「いい子」、「よく気づく子」と言われます。なぜって気付くから。
よく動くと言われても、動いてしまうから。にこにこするのも、しちゃうから、しちゃうだけなのです。
それだけなのに「割に合わない」ことが降りかかっきまして、疲れるわけです。歩きスマホをしてぶつかってくる輩をよけないといけない、それを当然と思っている輩はなぜ気づかない?「割りに合わなさ」を感じる人たちと語りあいたい。

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