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自己分析#9「それでいい」

どうも、毎回書き出しが迷走してしまう鹿です。しかし今回はちょっと違います。なんてったってBUMP OF CHICKENの話をしようとしていますからね。一応本筋はタグの通り自己分析のつもりでおりますが、もうほぼほぼ推しの話になるかと思います。いや、どうだろう少し盛ったかもしれません。文章力に自信がないのであまり期待しすぎないでくださいね。(若干迷走しているか...?)

私がやや前のめり気味なのにはちゃんと理由がありまして。先日、大好きなBUMP OF CHICKEN・藤原基央さん(Vo./Gt. 以下藤くん)のインタビュー記事が掲載されている音楽雑誌(ROCKIN'ON JAPAN、MUSICA、CUTの3誌各2021年7月号。簡単に説明させていただくと最新曲「なないろ」リリースに伴うもの)を一気に拝読したのです。そのなかのある部分について、どうしても思考の整理という名の自分語りをしたくなり、今日のこの場に至ります。推しの話とはいえあくまでメインは自己分析ですので、その点どうか温かい目で見守っていただければと思います。

※この文章は雑誌本文の引用や私自身の感想等、インタビュー記事の内容が一部分かるものになっています。ネタバレに敏感な方はご注意ください。

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どの記事をとっても、藤くんの丁寧な受け答えや音楽に対する誠実さ、歌詞に込められた想いなどがひしひしと伝わってきて涙が溢れたわけですけども、なかでも私の心が大きく揺さぶられたのがMUSICAの記事でした。

.........この歌詞を書いてる時さ、すげえ悲しかったんだよ。特に2番を書いてる時は本当にしんどくてさ。<胸の奥 君がいる場所 ここでしか会えない瞳/ずっと変わらないままだから>って2番のAメロで歌ってるけどさ、変わりようがない、更新されないようがないことってあって。............胸の奥でしか目を合わせられなくなってしまう存在っているじゃないですか。僕にとってもそういう存在がいて。〔中略〕でも、ある時から目と目を合わせることができなくなる、変わらなくなってしまう存在っていうのはいて.........そのことを書くのはすげえ辛かったですね。
(MUSICA 2021年7月号より引用)

「楽曲リリースに伴うインタビュー記事は、その楽曲をイヤホンで聴きながらじっくり読む」というのがマイルールとしてあるんですね。

ですからMUSICAのこの部分を読みながら改めて「なないろ」を聴いた時、大好きな人が悲しくてしんどくて辛い想いを抱えながら書いた詞だったんだということにまず苦しくなってしまって。烏滸がましい気がしてならないけれど、どうしようもなく切なくなって。こんな風に歌詞や作り手の想いはすごくキリキリとしたものなのに、聴こえてくる音はすごく軽やかというのがまたグッときて。このギャップがいつも大好きなんだよ...と思いながら、必死に読んで、聴きました。

そして同じく2番の<思い出すと寂しいけど 思い出せないと寂しい事>という歌詞。これがあまりにも私のなかにある感情すぎる...と気付かされて、私にとってのそういう存在―私の側にある“無”―を思い浮かべてそれはもうぐっちゃぐちゃに泣いてしまったんです。

よく『悲しいことを受け入れて前に進まなきゃ』みたいなことを言うじゃないですか。でも、受け入れるってどういうことなのかなって思って。笑えるようになったら受け入れたことになるのか?って。〔中略〕受け入れるってことの定義がよくわかんねえなと思って.........結論として、僕は忘れないことしかできないと思ったんです。
(MUSICA 2021年7月号より引用)

ぐっちゃぐちゃに泣きながらの、続くこの部分。もしかしたらここが、私の感情が一番揺さぶられた部分かもしれないですね。なんてエネルギーを消費する記事なんだろう...と個人的には思いました。藤くんの考えに共感すると同時に、改めて自分自身の考えを意識させられたような気がして、号泣も号泣。暫くは放心状態でした。

私は、私の側にある“無”を「今となってはある程度受け入れられている」と思っていたんです、漠然と。理由はうまく説明できないけど、着実に大丈夫になりつつあることは肌で感じていて。それがまた寂しくて。

そして「受け入れる」という言葉を体感久々に聞いたのもあってか、「私は私の状態を、今となっては受け入れられていると思っているけど、それって本当かな?断言できるのかな?もしそうなら、そうやって“無”を受け入れられている私は、大切なものを大切だと思う気持ちが薄れてしまっているということ?え、受け入れるってなに...?」となってしまって。自分の過去を内省させられたというか。記事を読みながら正直狼狽えまくりました...笑

そりゃあ今でも寂しいし、泣くこともある。だけど、一瞬でも脳裏によぎれば息を吐くより先にボロボロ涙が溢れて止まらない...みたいなことはなくなったし、全然関係ないことで思いっきり笑えてしまう。ずしっと感じるものはあるけれど、穏やかに深呼吸できるくらいにはなったかなとも思う。

そういうのをひとつの目安として「受け入れた」と言うのならきっとそうなんだろうし、実際私はそういう感覚でここまできたと思うんです。でもだからって「はいもう受け入れました~今日から大丈夫です!」となったわけではなくて...

あ、今書きながらちょっと分かったかもしれないです。多分ずっと現在進行形なんだ。うん、そうかもしれない。

自分でも何を言っているんだろうという感じですが、グラデーションみたいに少しずつ受け入れられるようになってきたんじゃないかなって、ちょっと思いました。

失った直後とあれから何年も経った今では、私の状態も感情も、その色や模様は当然大きく異なりますけど、ひとっ飛びにここまできたわけではないし、寂しさはずっと側にいる。大切なものを大切だと思う気持ちもその時々で確かにあった。薄いとか濃いとかじゃなく、ちゃんとあった。大切なものがそこに居ない―“無い”からってその存在を忘れたこともない。受け入れる過程はグラデーションだから、急に切り替わらないし途切れない。完結することもない。グラデーションだから、気付いていないだけでこうしている今もきっと少しずつ変化している。考えが矛盾しているか否かもよく分からないくらい自分でも「?」な状態で書いてしまいましたが、でもうん、そういう気がします。

具体的にどんな道を辿ってここまできたかは、記憶が抜け落ちている部分もあってやはりうまく説明できないのですが、時間の力は大きいかもしれないです。結果論にはなりますが、「時間が経った今だから大丈夫だと思えている」という部分は絶対にありますからね。受け入れられずに泣き続けたあの時間も絶対に必要だったはずですし。

あ、そうか...葬儀をはじめとする法要や供養も、時の流れを感じながら、故人を想うと同時に自分の気持ちを整理するという意味合いがきっとありますもんね。そうですよね。頭では理解していたつもりでしたが、この文章を書きながら今やっと、じんわり実感できた気がします。そういうものをひとつひとつ経験していくことで、徐々に落ち着いて、大丈夫になってきたのかもしれません。

少しスッキリしてきたぞ。

私が狼狽えてしまったのは多分、自分以外の誰かの、それも私が大好きな人の考えにものすごく共感したから。と同時に、それが自分の考えと絶妙に、ほんのちょっとだけ違うかもしれないということを感じ取ったから。自分と全く同じ人なんているわけないのに、そんなこと分かりきっていたはずなのに、いざ目の当たりにすると戸惑ってしまった。

人それぞれに意見や価値観があるように、私には私の正しさ...みたいなものが当然あって、だから記事を読んで「なるほどなぁ、そうだよなぁ、分かるなぁ、うんうん」と思いつつも、ここにこの文章を書きたくなった。私も藤くん同様、受け入れることの定義はよく分かっていないけれど、分からないなりに、「受け入れる過程はグラデーションのように現在進行形で変わりゆくものなんじゃないか」、「どんなに時間が経っても決して言い切ることはできないけれど、どちらかと言えば今の私は“受け入れている”寄りの状態にあると思う」という今の私のなかだけのとりあえずの落としどころを見出した(それは他でもない藤くんの考えに触れたからなんですけどね)。

私は私のことを自分がない人間だと思ってきたけど、実はそうでもないのかもしれない。

自分なりに、その時その時で必要な時間を過ごせていたのなら、その時その時で大切なものを大切だ、大好きなものを大好きだと思える私がいたのなら、自分なりの正しさを(とりあえずだとしても)見出だせたのなら、狼狽えなくたっていいですよね。大丈夫になりつつあることは確かに寂しいけど、それで自分を必要以上に責めることはないですもんね。寂しいままでいい。自分を正当化させたいだけの甘えかもしれないな、でも、「それでいいんだ」と思いたい。

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ちなみに、そんなどうにもできないような苦しくて辛い圧倒的事実への藤くんなりの答え(正しさ)が、MUSICAの記事にもあったように<忘れない事しか出来ない>なんですよね。これがまたほんと...ちょっといまだにぴったり表せる言葉が見つからなくてもどかしいんですけど、ものすごく藤くんであり、ものすごくBUMPだよなぁと。救われた...というか、すごく納得したんです。

これは20代の頃から言っていることなんですけど、僕は事実だけ書いているんです。晴れている日に水たまりがキラキラするのは、当たり前の事実なんです。それを嬉しいとか、嬉しくないとかは、その時に、生きている人が勝手に決めるんです。〔中略〕だから極論を言ってしまえば、今、自分を取り巻いている状況がどういうものなのかは、全部自分でコントロールできてしまう。〔中略〕基本的には、朝起きて何をどう思うかは、僕の勝手だし、あなたの勝手なんですよね。そのことがすごく大事だと思っているんです
(CUT 2021年7月号より引用)

CUTの記事にもあるように、藤くんは、BUMPは、あくまで事実だけを歌ってくれるから、そしてそこに何を感じて(感じなくて)どう動くか(動かないか)は聴く者に委ねてくれるから、こんなにも納得できて、信じられるんだろうなぁと思いました。

九分九厘楽曲に助けてもらいながらも、最後の最後は自分のなかにある答えに自分で気付かせてくれる...みたいな、そういう力をBUMPの音楽はくれるから、そうやって私が思う私のためだけの正しさをいつも肯定してくれるから、「自分を信じて...」といった表現を進んで用いたいタイプではない私でも、「もしかするとこんな私でいいのかもしれない」と思えてしまえるんだろうなぁと。

私はなかなか自分に自信を持てない人間だから、誰かの正しさに憧れ、引っ張られることがよくあります。それが好きな人のものならなおさら。実際今回号泣するほど藤くんの考えに共感したわけですし。だけどそれとは別に、自分のなかにあった私だけの正しさに気付き、認めたくなったのも事実。人には人の正しさがある。それは当たり前のことだから、(過去の自分自身を含む)誰かの正しさと今の自分の正しさ、そのどちらも正しいと思うのなら、それゆえに葛藤してしまうのなら、「あなたは正しい、私も正しい」でいいんですよね(都合がいい考え方かもしれないし、全てにおいてこの考え方が通用するわけではないのでしょうけれど)。誰かの正しさが自分の正しさと100%同じでないからといって戸惑う必要はない。そういうのを全部ひっくるめてひとつの正しさだと言ってもいいのだろうし。

BUMPとBUMPの音楽、さらには自分のことも信じてみようと思わせてくれる力が、彼らには確かにある。それがどんなに嬉しくてありがたくて幸せなことか。

どの記事のどの部分を読んでみても、「ああ、だから私はBUMP OF CHICKENが大好きなんだよなぁ、そうなんだよ」と強く強く強く強く感じていました。読んで良かった。読めて良かった。

いてくれて良かった。出会えて良かった。好きになれて良かった。

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きっとこれから先、大切で大好きなものの数だけ、喪失や寂しさを経験していくのだと思います。その時どんな色の、どんな模様のグラデーションを描くかは分からないけど、今日みたいに辿ってきた道をふと振り返った時に「それでいいんだ」と思えたら、いいなぁ。

その時隣にBUMPの音楽がいてくれたら、これほど幸せで心強いことはないと思う。

ちょっと締め方が強引ですかね。うまくまとめられた自信もないしなぁ。でもまあいいか。私がこれでいいと思っているから。

ではまた。

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(<>内の歌詞はBUMP OF CHICKENの「なないろ」から引用しました)

https://youtu.be/ZvFs03X944E
BUMP OF CHICKEN「なないろ」MV
(BUMP OF CHICKEN公式YouTubeより)

(参考、引用雑誌は各誌公式サイトより購読しました)

山崎洋一郎ほか編.ROCKIN’ON JAPAN 2021年7月号.第35巻7号通巻534号,2021,https://www.rockinon.co.jp/business/publication/magazine/149468,(参照 2021-07-04)
有泉智子ほか編.MUSICA 2021年7月号.第15巻第7号,2021,http://www.musica-net.jp/detail/2021/7/,(参照 2021-07-04)
渋谷陽一ほか編.CUT 2021年7月号.第32巻第7号通巻434号,2021,https://www.rockinon.co.jp/business/publication/magazine/149993,(参照 2021-07-04)

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