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劇薬としての音楽(古賀及子)

区から無料歯科検診の受診券がとどいた。しばらく診てもらっていなかったから、こりゃ助かるわいといそいそかかりつけの歯科で予約を取り、受診にやってきた。

診察用の寝台はひとつ、補助をする助手も、事務係もいない、先生がたったひとりで全部やるのがこの病院の特徴だ。ほほの内側にたまる唾をタピオカ用のストローみたいな太さの管でズボーっと吸い取るあれも、助手がいないから先生が治療の合間に器用にあやつる。

軸足を徹底的な予防に置いて、必要な治療だけをするのがモットー。処置の手がやたらに速いのも特筆すべき点で、はずれた銀歯は作りなおさずそのまま付け直す。手抜きだととらえて離れる患者もいるようだけど、もう10年世話になって困ったことがひとつも歯に起きていないのだから、私は名医だと思っている。

10年を通じ、変わらずBGMは流しっぱなしのJ-WAVEだ。診察台に座って口をゆすぎ、イスが倒れて横になったところでサンボマスターの『できっこないを やらなくちゃ』がかかった。

「そしたらはじめますね、軽く口あけて」

口を開けながら、進行するBGMに心がどんどん感激していった。

私は音楽をあまり必要としない種類の人間らしい。若い頃はそんなことはない、人生は音楽で彩られるはずだとあらがったが、大人になるにつれ、特に最近いよいよ真実だと明らかになってきた。放っておくと音楽を望むことなく平気で無音の世界をすごす。救いをそこに求めることが無い。

たまに思い出してプレイリストを作り通勤時などにかけることはあるけれど波があって、月間で1曲も聴かない月が平気である。

だからたまに強い音楽にふれるとてきめんに効果があらわれる。普段酒を飲まない人が、たまにもらった一杯ですっかり酔うようなことが音楽で起こる。なんだこれはと驚いて魂が強くゆさぶられる。

つまり、歯医者のBGMのJ-WAVEで全身が感動してしまう。

同じようなことは、これまでに何度もあった。

大人になってもたまに新たに友人ができることがあって、コロナ禍に入る直前の飲み会で知り合ったのが川田さんだ。川田さんは立ち食いそば屋で働きながら余暇にバレエを踊る若い人で、私は踊りを観るのが好きだから気が合った。

せっかく仲良くなるもすぐに緊急事態宣言が発令され会うに会えなくなってしまったが、川田さんはいまのカルチャー全般に精通しており、在宅で楽しめるコンテンツの情報をLINEで交換するようになった。

この曲、古賀さん好きだと思いますよと、羊文学『恋なんて』のSpotifyのリンクが送られてきたのは、在宅勤務のあいまにコンビニにコーヒーを買いに出た日だ。

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