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風船のまち(古賀及子)

小学校の高学年から高校までを、埼玉県西部の山に開発されたニュータウンで暮らした。

1990年代に開発されたニュータウンへは、東京都心から郊外へと延びる私鉄路線の終着駅でいったん下車し、山間部へ行く別の路線に乗り換えて着く。

山へ向かう路線はボックスシートの車両が走る。かつては対面するシートの窓際に小さなテーブルがついており、その下がたしか栓抜きになっていた。観光で乗るお客がビールやジュースの栓を抜いたんだろう。実際、週末は登山客でいっぱいになる。

ひとつひとつ手続きを踏んで、まちとしてきちんと育った歴史のある景色を横目に電車は山へ向かう。徐々に住宅が減り、そのうち山の森に突っ込む。雑木をかきわけて進んで数駅、ぱっと視界が開けると山の斜面に数千件の家がみっちり並ぶ景色が急に広がる。

トンネルを抜けるとそこは住宅街であった。そんなニュータウンだ。

開発した山肌が斜面として生かされ、勾配をなでるように家は建ちならぶ。家と家とのあいだは隙間がほとんどなく、つまんで並べたようだ。標高が上がるごとに舗装された崖があり、段々畑のようでもある。

暮らした家は、ニュータウン開発の最後の仕上げとして区画された場所にあった。駅から続く家、家、家を眺めながら山を登って登って20分弱のところだった。

ニュータウンは全体の構造として、ふもとの駅を起点とし、開発開始当初に建った古い住宅が駅の近くに、山頂へ向かうほど築年が浅くなる。

先に入居した住民は駅に近いことが大きな利点だが、子どもにとっては新しい、頂上に近い方が有利だ。山頂には小学校と中学校がある。

山そのものがニュータウンだった。山にいるかぎりは外へは出られない。

住宅の開発中はスーパーがあって、周囲には商店街も並んでいたようだが私たち家族が引っ越してきてすぐに相次いで閉店した。とくに本屋の撤退は早かった。山の中腹にせめてあった独立系のコンビニも閉店してふつうの民家になり、唯一残ったドラッグストアの店主は怖かった。

まちを出て外の気分にふれるには、歩いてふもとへ降り、隣山、もしくは川の流れる平野のまちへの道をたどるか、学校のある頂上から峠を向こうへ越え山の逆側のまちに降りる必要がある。

本当だったら、電車に乗るのが速いし遠くまで行ける。ふもとの駅から1時間に1本運行している。ただ中学のうちは定期券も持っておらずお小遣いも限られている。山の傾斜はきびしくて、自転車は家にはあったが使えない。妹がたまにスタンドを立てた状態で競輪選手の稽古のようにから漕ぎしてトレーニングだと言っていた。まちを出るためにはひたすら歩くしかなかった。

ふもとから平野に出るルートには、歩いていくと30分で本屋に、1時間で図書館に行けた。山を越えるルートは峠を30分かけて越えると、越え切ったところで目の前に山麓沿いの細い国道が現れる。国道をトラックにひかれないように用心深くまち方面に10分ほど歩いたあたりにコンビニがあった。

週末は歩いて外へ出て、でも思い返せばやっぱりほとんどの時間、私は山のなかにいた。住んでいたのだから。


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