20歳、時給250円(古賀及子)
入社したその日だったか、翌日だったか、変な会社だなと気づくのにそれほど時間はかからなかった。暮れと正月以外は無休で営業するこの会社、勤務予定が前日までわからないのだ。
私は短大を卒業してすぐの20歳で、会社勤めはこれがはじめてだった。けれどアルバイトだったら高校時代からあちこちでやってきた。フードコートの甘味コーナーとか、ホテルのレストランとか、とんかつ屋とか、どこへ行ってもシフトが存在し、勤務予定の一覧がそれなりに事前に渡された。
この会社には社員の勤務予定表がない。夕方に翌日の予定を課長と呼ばれる社長の息子が決めて社員たちに知らせる。「明日、休んでいいよ」と言われれば休みだし「明日早番ね」と言われれば8時に出社する。遅番なら10時出社だ。
早番と遅番という区分もちょっと普通じゃない。一般的には勤務の時間帯を示すはずが、この会はでは来る時間を指示するための言葉にすぎない。早番でも遅番でも、帰れるのは22時か23時、へたするともっと遅い。
深い時間になってくるとなんとなく雰囲気で、これも課長が「帰っていいよ」と判断する。基本的には全員の仕事が終われば帰れるし、終わらないと帰れない。
印刷の会社だった。広告制作会社とか、デザイン会社が作った大判のデータを預かって、印画紙という紙にでかい機械で出力するのが仕事だ。出力した紙は丸めて筒に入れ、背負って自転車で客先まで配達する。
まったくナメた話がここに極まる。私は就職活動をし、内定をもらった会社に就職しなかった。
若い私の人生は、行く先を人に構われたことがほぼない。誰も彼もの死角に入ったように周囲の大人が口を出さなかった。結果的に私は人よりも自分の将来に対する自我をゆっくりゆっくり育てたように思う。
行政が決めた通りの小学校と中学校に通った。高校は何も考えずに模試で出た偏差値よりも少し低めでまあ入れるだろう県立高校を受験して入った。それから、そうだ、ここだけは大人のすすめがあった、推薦の枠が余っているからこの短大に行ってくれないかと担任から言われた。親に学費を払って欲しいと頼むとありがたいことに了承が得られたから、推薦を受けて短大に上がった。
就職活動もなんとなく同級生がやっているようだったから雰囲気まかせに数社にエントリーシートを送り、絶対に就職したいという気持ちの無さが醸し出す完全にリラックスした様子が面接官にウケて内定をもらった。直後にサークルの先輩が就職せずフリーターの道を選んだのに感心して辞退した。
そうして驚いた。卒業したら、やることがなかったのだ。
ぼんやり生きても、これまではやることがあった。学校に入学すれば平日の日中は校舎まで来なさいと言ってもらえる。行く。それだけでほとんど暇はつぶれた。
けれど、就職先の無い状態で短大を卒業してしまった結果、急に行くところがふっと、ろうそくの明かりを消したみたいになくなった。
あわてて辺りを見回す。中学の同級生は多くがまだ大学生だ。高校の同級生は高卒で就職して工事現場や工場、ゴルフ場ですでにもりもり働いている。専門学校を出て理容師や美容師、保育士になった友人もいた。短大の同級生はみんな商社や銀行の事務の職をちゃんと得て研修で大変な時期だという。フリーターになった先輩たちはバンドや劇団とバイトの両立で忙しいと聞いた。
私だけ、あかりが消えた暇の宇宙に飛び込んでしまった。
当時私は祖父母の家に居候していて、毎月バイト代を、ほんの少しだけど生活費として家に入れていた。住み続ける以上、収入を得ねばならない。
そうか、ここで仕事なのかとやっとわかって、アルバイト情報誌を買ってきた。そうしてやってきたのが、東京都心の繁華街のはずれにある印刷会社だ。
幼いころ、年末にプリントゴッコで年賀状を刷るのが大好きだった。書いたものが複製されて、増えて、ぺらぺらした平面のまま遠くへ届いていくことが、理屈はわかるけれど不思議で興奮した。
コピー機も好きで、小学生の頃よくコンビニの複合機で自分の書いたものを無意味にプリントした。町内役員をしていた父に頼んで町内会の事務所にあるリソグラフでも他愛のないことをあれこれ書いたものを印刷して盛り上がったこともあった。印刷という営為そのものに本能的な憧れを持っていた。それで選んだ会社だった。
面接はいままさに印画紙に出力するさなか、部屋にぎっしり大型のプリンタが置かれた狭いオペレーションルームで行われた。課長だと自己紹介した面接担当者の向こうで働くオペレーターたちを眺めながら聞かれたことにこたえて、はっと、気が付いたら、来週から来てとその場で採用されていた。
翌週の月曜日、朝の8時に新人5人が集まった。課長とその父親だという社長と、部長と呼ばれるおじさんと、あとは若いオペレーターが5~6人働く小さな会社に新規で5人も採用するなんてことがあるんだろうか、これは怪しい、などとはひとつも思いつかないままただ緊張した。
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