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クラシック音楽(7) ジュリオ・カッチーニ (1545-1618)

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ジュリオ・カッチーニ (1545-1618)

ジュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini)(1545–1618)
source: Notestore 

ジュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini)(1545年頃 - 1618年)。イタリア・ルネサンス音楽末期、バロック音楽初期の作曲家。ヤコポ・ペーリとならんでモノディー様式の代表的な音楽家の一人。

バロック音楽

16世紀の終わりから18世紀前半にかけてのヨーロッパ音楽を表す時代概念。一般的には、オペラの誕生から、モンテベルディ、シュッツ、コレッリの活躍を経て、クープラン、ビバルディ、バッハ、ヘンデルの時代まで。

「バロック」の語源は、「いびつな真珠」を意味するポルトガル語「バローコ」barrocoに由来しています。これを初めて、音楽に適用したのは18世紀、フランスの音楽批評家ノエル・アントアーヌ・プリュシュで、彼は1746年にパリで出版された書物のなかで、

フランスの「歌うような音楽」に対して、イタリアの協奏曲を奇抜で騒々しい「バロック的な音楽」

と呼んでいます。このように否定的な意味を含む形容詞として用いられた「バロック」を、芸術の様式概念に高めたのは、19世紀の美術史家ブルクハルトでした。彼の『美術案内(チチェローネ)』(1855)は、ミケランジェロ以後の時代を盛期ルネサンスの衰退期としてとらえ、その様式を「バロック様式」と呼びました。「バロック」から否定的な意味を取り去り、「ルネサンス」と対等な価値をもつ芸術様式として評価したのはウェルフリンの『ルネサンスとバロック』(1888)。彼は『美術史の基礎概念』(1915)において両様式の特徴を5対の対立概念で表しました。それを音楽に適用し『バロック音楽』(1919)という新語を提唱したのがクルト・ザックス。こうして今日では、16世紀の終わりから18世紀前半のヨーロッパ音楽を「バロック音楽」と呼ぶようになりました。フランスでは、この語に本来備わる否定的な意味を嫌い、また当時のフランス文化が一つの全盛期を極めたとの認識から、むしろパイヤールのように『フランス古典音楽』(1960)という呼び方を好む傾向があるとか。

https://note.com/shijimiota/n/n0eff3ce6ebea


ヤコポ・ペーリ

ヤコポ・ペーリ

ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri)( 1561年–1633年)は、イタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物。16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、


モノディー様式

モノディまたはモノディー(英語: monody)は、15世紀終わりにフィレンツェ・ローマを中心に生まれた新しい独唱スタイルの音楽。独唱、または重唱の歌手と伴奏の楽器で演奏され、多くは弾き語りでした。それまでの音楽は、多声部で書かれたポリフォニーを中心とし、均整のとれた滑らかな響きを指向するルネサンス音楽が主流でした。歌詞の言葉の意味をはっきりと表現し、また聞き取りたいというこの当時の知識人の要求から、それまでの伝統を音楽的間違いとし、独唱また少ない人数の重唱に伴奏楽器を伴う音楽が生まれ、これがレチタール・カンタンドrecitar cantando(語りながら歌う)と呼ばれます。モノディは、この様式の独唱歌曲を指す言葉です。一般には、このレチタール・カンタンド様式を指して、使われることが多い。作曲の上での高い自由度ゆえに、極めて幅の広い音楽表現が可能になり、バロック音楽誕生の一つのきっかけとなりました。

ポリフォニー

ポリフォニー(polyphony)は、西洋音楽史上で中世からルネサンス期にかけてもっとも盛んに行われた、複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味します。

生涯

カッチーニは、ローマでリュート、ヴィオール、ハープを習い、歌手としての名声を博しました。1560年代、コジモ・デ・メディチが彼の才能に感銘を受け、若きカッチーニを更なる勉学のためにフィレンツェへ招きました。

1579年には、カッチーニは、メディチ家の宮廷で歌手をしていました。彼の声域は、テノールであり、また自分自身でヴィオールの伴奏を付けることができました。カッチーニは、婚礼や国事など様々な宴会で歌い、当時の壮麗なインテルメディオ(オペラの先駆の一つ。精密な音楽・劇・映像的見せ物)で役目を果たしていました。またこの時期に、彼は人文学者、作家、音楽家、考古学者達の活動に加わりました。彼らは、ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi: 1534年2月5日 - 1612年9月/イタリアの文芸評論家、作家、作曲家、軍人)伯爵の邸宅に集まり、失われたと思われている古代ギリシャの劇音楽の栄光を復活させようとする団体、「カメラータ・デ・バルディ (Camerata de' Bardi)」を結成しました。カッチーニの歌手、楽器奏者、作曲家としての才能によって、カメラータ・デ・バルディは、モノディ様式を確立し、それはルネッサンス末期のポリフォニー音楽の慣習からの革命的な新発展となりました。

16世紀末の20年間、カッチーニは歌手、教師、作曲家としての仕事を続けました。カッチーニの教え子の中には、クラウディオ・モンテヴェルディの最初のオペラ「オルフェーオ」の主役として歌ったカストラートのジョヴァンニ・グアルベルト・マリ(Giovanni Gualberto Magli)もいました。

カッチーニの人柄は、完全に高貴といえるものではなかったようで、しばしば、プロとしての生活だけでなくメディチ家での昇進においても、羨望や嫉妬に突き動かされていました。ある時、彼はフランチェスコ大公(フランチェスコ1世・デ・メディチFrancesco I de' Medici)に、ピエトロ・デ・メディチ(Pietro de' Medici)の妻であるエレオノーラ(Eleonora)が、ベルナルディーノ・アンティノーリ(Bernardino Antinori)と密通していることを伝えます。カッチーニの報告が、ピエトロによるエレオノーラ殺害を引き起こす直接の原因となりました。カッチーニの、エミリオ・デ・カヴァリエーリ(Emilio de' Cavalieri)やヤコポ・ペーリとの競争は激しいものでした。カッチーニは、おそらく、カヴァリエーリを1600年に行われたフランス王アンリ4世とマリア・デ・メディチの婚礼祭の指揮者の座から降ろさせた人物の一人であろうとされています。(この出来事によって、カヴァリエーリは激怒してフィレンツェを去りました)。またカッチーニは、自作のオペラ『エウリディーチェ』(Euridice)を、同じ題材で発表しようとしていたペーリの作品に先んじて印刷し、同時に彼のグループの歌手たちに、ペーリの作品の出版に一切協力しないように頼んでさえいたようです(性格が悪い)。

1605年以降もカッチーニはアンティフォナなど宗教音楽の作曲や演奏で役割を果たしていましたが、彼の影響力は衰えていきました。カッチーニは、フィレンツェで逝去し、聖アヌンツィアータ教会に埋葬されています。

コジモ・デ・メディチ

ヤコポ・ダ・ポントルモ画 コジモ・デ・メディチ(1518 - 1519年)

コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici, 1389年–1464)は、フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家。メディチ家のフィレンツェ支配を確立しました。コジモは、フィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ローマ皇帝にならい、「祖国の父」(pater patriae)の称号を贈られました。通称コジモ・イル・ヴェッキオといわれています(イル・ヴェッキオ il Vecchio は老人の意)。


代表曲

カッチーニの(じゃない)アヴェ・マリア

本当は、1970年頃ソ連の音楽家ウラディーミル・ヴァヴィロフ(Vladimir Vavilov 1925-73)によって作曲された歌曲。録音も楽譜も90年代前半まで知られていません。出典が明らかにされず、現在入手出来る出版譜は全て編曲されたもので、歌詞がただ“Ave Maria”を繰り返すだけという内容もバロックの様式とは相容れません。ヴァヴィロフは、自作を古典作曲家の名前を借りて発表することがよくあり、自身が共演しているIrene Bogachyovaの1972年の録音では「作曲者不詳」の『アヴェ・マリア』として発表していました。
以上のような事実はCDや楽譜の楽曲解説では言及が無く、現在一般にはカッチーニ作品と誤認されている。

エウリディーチェ (Euridice) (1600年)


チェファロの強奪 (Il rapimento di Cefalo) (1600年)


参照


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