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「ルワンダ大虐殺」とは何なのか?

ルワンダ虐殺とは何か?

ルワンダの虐殺記念館、ンタラマ教会に展示されている、大虐殺の犠牲者たちの頭がい骨(2004年2月27日撮影)。©AFP/GIANLUIGI GUERCIA

1994年にルワンダで起こった大虐殺。国連は、少数派のツチ人とフツ人穏健派合わせて約80万人が殺害されたと推定してます。

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ルワンダ大虐殺

起こった日:1994年4月6日

犠牲者の数:80万〜100万人(約100日間の間に。つまり1日に8,000人から1万人殺されている)

急進的なフツ至上主義の台頭による政情悪化が収まらず、1994年4月にジュベナール・ハビャリマナが暗殺された事件を発端に、政府と暴徒化したフツによる、ツチ穏健派フツに対するジェノサイドが勃発。この結果、約100日間のうちに、当時のルワンダの総人口約730万人中、およそ80万人から100万人が殺害されたと見られています。



ジュベナール・ハビャリマナ
(Juvénal Habyarimana, 1937年3月8日 - 1994年4月6日)は、フツ出身のルワンダ第3代大統領。 1994年4月、ブルンジのフツ系の大統領、シプリアン・ンタリャミラと一緒にキガリ空港に向かっていた飛行機が何者かによって撃墜され死亡した。この事は支配的な少数派のツチと多数派のフツとの間の争いの火付け役となった。


虐殺は、その勃発を受けて侵攻を再開したルワンダ愛国戦線(英語: Rwandan Patriotic Front, RPF, フランス語: Front patriotique rwandais, FPR:1987年、ウガンダに逃れたツチ系難民によって設立されたルワンダの旧反政府勢力)がルワンダ全土を掌握したことで終息し、フツのパストゥール・ビジムングを大統領、ルワンダ愛国戦線のポール・カガメを副大統領とする新政権が樹立されました。

フツ

フツ (Hutu、フトゥ) は、アフリカ中央部のブルンジルワンダに居住する「3つの民族、フツ、ツチ、トゥワの集団の中で最も大きな集団。CIAによると、ルワンダ人の84%、ブルンジ人の85%がフツ。フツとツチは同じ宗教、同じ言語を共有しています。2つの集団の違いは、民族性に基づいているというよりも階級的に分けられた、人工的なもの。幾人かの学者が指摘するように、ドイツ及びベルギーの植民地支配が、フツとツチの民族性の概念を作り上げるのに重要な役目を果たしたと考えられています。フツとその地域に居住する他の民族集団、特にツチとの間には文化的な違いはほとんど存在していません。トゥワ(Twa, ピグミー系)とは身体、特に身長の差異が大きく、遺伝的にも差異が認められます。

ジェノサイド

ジェノサイド(genocide)とは、国家、民族、人種集団を計画的に破壊すること。ギリシャ語の γένος(種族)とラテン語 -caedes(殺戮)の合成語で、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)により『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治』(1944年)の中で使用された造語です。

ルワンダ愛国戦線

ルワンダ愛国戦線(英語: Rwandan Patriotic Front)は、1987年、ウガンダに逃れたツチ系難民によって設立されたルワンダの旧反政府勢力。現在ではルワンダ大統領ポール・カガメ率いる政党。現在のルワンダ政府は、ルワンダ愛国戦線と他の政党(キリスト教民主党、イスラム民主党など)との連立政権。

ジュベナール・ハビャリマナ

ジュベナール・ハビャリマナ(Juvénal Habyarimana,)は、フツ出身のルワンダ第3代大統領。1994年4月、ブルンジのフツ系の大統領、シプリアン・ンタリャミラと一緒にキガリ空港に向かっていた飛行機が何者かによって撃墜され死亡しました。この事は、支配的な少数派のツチ多数派のフツとの間の争いのきっかけとなりまいた。

ジュベナール・ハビャリマナ氏

ルワンダとブルンジは、ドイツやベルギーの支配を受けていた歴史があり、そこで浸透した階級意識が、文化的、人種的、民族的に差のないフツとツチの間に境界を形成し、闘争に発展したのが、ルワンダ虐殺の構造なようです。ツチが少数で支配的なポジションで、フツが非支配的ポジションで多数派でした。しかし暗殺された二人の大統領は、ともにフツ系。そして飛行機が撃墜されるということは、軍事的にその規模の武器を入手可能な組織が、大統領を暗殺したということになるはず。しかしツチ難民という言葉を調べていると出てくる。わからない。経緯を観ていきます。


ルワンダ紛争

ルワンダにおいて、1990年から1993年にかけ、フツ系の政府軍およびインテラハムウェと、ツチ系のルワンダ愛国戦線 RPFとの間で行われた紛争。

ということは、対立は、
フツ系の政府軍およびインテラハムウェ VS ツチ系のルワンダ愛国戦線 RPF
ということにになる。

インテラハムウェ

インテラハムウェ(ルワンダ語: Interahamwe)は、ルワンダにかつて存在した民兵組織。ルワンダ大虐殺を扇動し実行した、当時の与党民主主義・開発国民共和運動 (MRNDD)のフツ系過激派民兵組織

武器はどこから入手したのだろう?バックにはどこかの国があったのだろうか?

その前にフツ対ツチの経緯をみてみましょう。

ツチ対フツ

フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族(フツ)であるか遊牧民族(ツチ)であるかという違いしかありませんでした。貧富の差が2つの集団の差であり、遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かでした。つまり、ツチが比較的豊かで、フツは比較的貧しかった。

ルワンダは、第一次世界大戦まで、ドイツの植民地・ドイツ領東アフリカでした。

第一次世界大戦以降は、ベルギーの植民地・ルアンダ=ウルンディとなります。ベルギー植民地下では、少数派であるツチを支配層とする間接支配体制が築かれました。

ベルギーの支配下中に、ツチを支配層に据えていた

ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られ、多数派のフツごく少数のトゥワに対して差別的な扱いをしていました。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布し(※1)、ツチとフツは大きく対立し始めました。

つまりベルギー人ら白人たちによる人工的な対立が形成されたということ(「ら」って、ベルギー人以外の白人が関与しているのか)

植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けていました。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められました。

1959年に始まったルワンダ革命(Rwandan Revolution)(1959年 - 1961年)でツチとベルギー当局との関係が悪化

ルワンダ革命

ルワンダ革命は、フツ革命、社会革命、破壊の風とも呼ばれ、1959年から1961年にかけて、ルワンダの3つの民族のうち、フツ族とツチ族の間で行われた民族間暴力の時代を指します。この革命により、ベルギーの植民地であったツチ族の君主から、独立したフツ族主体の共和国へと移行しました

つまり、ベルギーの傀儡として形成されたツチによる支配が、どういう経緯か、ベルギーとツチの関係が悪化し、「ならば」ということでベルギーは、ツチからフツへ支援を鞍替えし、フツよるツチ支配の体制を転覆しようとした、ようです。

ベルギー当局は、国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援しました。

植民地解放の気運が高まり、ベルギー当局とカトリック教会(?)は、多数派のフツ側に立場を逆転させます。現地のカトリック教会の神父・修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もありました。殺したのはツチ側か?この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出しました。1962年にルワンダはベルギーから独立。

フツ・パワーの形成

フツ・パワー (英: Hutu Power, 仏: pouvoir hutu, pouvoir par les hutu, フトゥに権力を) は、過激派フツおよびアカズと呼ばれるハビャリマナ(上記)政権中枢の有力者らにより提起されたフツ至上主義からなるイデオロギー。このイデオロギーは、1994年のルワンダ虐殺においてツチや穏健派フツへの虐殺を招く要因となりました。

アカズ

アカズ (Akazu) は、ルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナと妻のアガト・ハビャリマナの血縁者を中心とした、フツの非公式な政治権力の中枢組織。この組織のメンバーや関係者の多くが、1994年のルワンダ虐殺に加担した疑いが持たれています。「アカズ」とは、ルワンダ語で「小さな家」を意味しています。

1993年に停戦していた

1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立しました。しかしその後もルワンダ愛国戦線の侵攻により北部地域でフツが大量移住をさせられたり、南部のフツによるツチへの虐殺行為が行われました。

そして1994年にフツのハビャリマナ大統領らが暗殺され、フツによるツチのジェノサイドが始まる

1994年4月に生じたハビャリマナ大統領の暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となります。この虐殺は、フツ過激派政党とフツ系民兵組織、インテラハムウェとインプザムガンビが主体となって行われました。虐殺行為を主導したのは、アカズ。ツチのルワンダ愛国戦線とフツのルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行しました最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争と共に終結します。


今更ながら、ルワンダってどこ?

ルワンダは東アフリカに位置する内陸国。国土は緑の山岳地帯に覆われています。ヴォルカン国立公園は、マウンテン ゴリラやゴールデン モンキーの生息地。この公園には標高 4,507 m のカリシンビ山があるほか、森林に覆われた 4 つの火山が連なっています。


組織的虐殺の準備が行われいた

近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織だって行われていたことがわかっています。ルワンダ国内では、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は、3万人にまで達していました。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能でした。インテラハムウェインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していました。

マチェーテ

ルワンダ虐殺当時のジャン・カンバンダ首相は、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して“ツチを排除すれば、ルワンダにおける全ての問題は解決する”と話していた」と証言しています。カンバンダ首相はさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べています。

メディアの役割

研究者の報告によれば(※2)、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしていたとされています。新聞や雑誌などの地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行っていました。

当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられています。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」そうです。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担っっていました。

ルワンダ国際戦犯法廷では、カングラ誌の背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発しました(このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化しています)。

カングラ誌はまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行っています。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがあります。

ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たしていました。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLMC) の2局。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られています。


疑問(1)ツチとフツの対立形成に、ベルギー人以外の白人が関与しているのか?

フランス。2008年に、ルワンダ政府は5日、1994年のルワンダ大虐殺にフランスが積極的に加担したとする報告書を発表しています。報告書は、フランスの複数の政治家や軍幹部の氏名を挙げ、彼らは訴追されるべきとしています(※4)。

その後、マクロン大統領が、ルワンダ虐殺におけるフランスの責任を認めています。


疑問(2)フツ系政権を支援していたのはフランス。なぜ?

なぜだろう?これから調べます。

ルワンダ愛国戦線(RPF)を支援していたのは、ウガンダ政府なぜ?

これから調べます。


参照

※1:Hamites


※2:Media and the Rwanda Genocide, The


※3







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