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キューバ危機って何?

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キューバ危機って何?

キューバ危機:キューバ・マリエル海軍港のソビエトのミサイル発射場の偵察写真、1962年11月8日

知っているようで、尋ねられたらうまく答えられない話を深堀りします。今回はキューバ危機。いつ?何?なぜ?そのあとどうなった?のか掘っていきましょう!

英語で「キューバ危機」ってなんていうのか?

英語で話をしているときに、キューバ危機についてなんて言えば良いのか。英語では、「Cuban Missile Crisis」。ミサイルが入ってくるし、「キューバの」だから「Cuban」なんですね。


キューバ危機っていつ?

1962年10月から11月。日本の元号は昭和37年で内閣総理大臣は池田 勇人(いけだ はやと)氏。池田勇人氏は、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与しました。1960年に内閣総理大臣に就任。「所得倍増計画」を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たし他人物でした。


キューバ危機って何?

1962年10月から11月にかけて、旧ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚。アメリカ合衆国がカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事

1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送りました。アメリカ合衆国は、偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見。直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫りました。しかし当時のケネディ大統領フルシチョフ第一書記とが書簡でやり取りし、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わりました。これを期に米ソ間でホットラインの開設が設置され、不測の事態による軍事衝突を防ぐための対策が取られました。

アメリカ軍が空中偵察でミサイル基地を発見したのが1962年10月14日。
大統領にその情報が入ったのが10月16日。
フルシチョフ第一書記がミサイル撤去を伝えた10月28日。
アメリカ合衆国が封鎖解除したのは11月21日。

この危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ理由

この危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶことがあります。それは、この1年半前の1961年4月に「ピッグズ湾事件」が起こったため。このピッグズ湾事件が「第一次キューバ危機」となる

ピッグス湾事件(Bay of Pigs Invasion)とは、1961年に在米亡命キューバ人部隊が、アメリカ合衆国CIAの支援の下でグアテマラで軍事訓練の後、キューバに侵攻してフィデル・カストロ革命政権の打倒を試みた事件。

1959年1月キューバ革命後、2月にフィデル・カストロが革命政権の首相に就任。革命直後の新政権は、当初アメリカ合衆国への敵対の意志は無かったが、アメリカ合衆国が、カストロの国内政策を社会主義的と断定し、対立の意志を示し、1961年1月に国交を断絶します。その間にカストロ政権の転覆計画が密かに進められました。国交断絶直後にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワー大統領時代にCIAを中心に進められていたキューバ侵攻計画を承認して、1961年4月15日にキューバ軍機に偽装した爆撃機がキューバ空軍飛行場を爆撃し、17日から亡命キューバ人の上陸部隊がピッグス湾(コチノス湾)にあるヒロン浜に上陸侵攻を開始しました。しかし、ソビエト連邦の援助を受けたキューバ軍は19日まで上陸地点のヒロン浜に反カストロ軍『二五〇六部隊』の上陸部隊を封じ込めます。上陸部隊は19日に投降、114名が戦死し1189名が捕虜となりました。この作戦を主導したアメリカ合衆国は世界から非難を受け、ケネディ政権はキューバ政策で大きくつまづきました。

なぜ起きた?

まずは、キューバという国がどういう状況だったかを知る必要があります。キューバの公用語はスペイン語ですが、それはキューバがかつて、スペインの植民地だったため。その始まりは、クリストファー・コロンブスが1492年にキューバを「発見」されたこと。この支配は約400年続くも、キューバはアメリカ合衆国と協力して、スペインからの独立を目指します。そうして、1898年にアメリカ合衆国とスペイン帝国で戦争が起き、アメリカ合衆国が勝利します。晴れて、キューバは1902年に独立しますが、今度はアメリカ合衆国による支配が始まります。アメリカ合衆国はキューバに対して内政干渉権を認めさせ、グァンタナモとバイア・オンダに軍港を起きます。キューバにはアメリカ資本が進出し、様々なアメリカ企業が流入していきます。

不安定な政局を経て、独裁者フルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)大統領、アメリカ合衆国政府、アメリカ企業、アメリカマフィアがキューバの富を独占していきます。

そんななか弁護士のフィデル・カストロが蜂起するが失敗します。

恩赦を受けたカストロはメキシコに亡命。そこでアルゼンチン人の医師、エルネスト・チェ・ゲバラと出会います。

カストロとゲバラが率いる革命軍82名は、1956年にキューバに上陸。壊滅的な打撃をキューバ政府軍から受けますが、マエストラ山脈を拠点としてゲリラ闘争を2年ほど続け、1959年に独裁者バティスタを国外逃亡(ドミニカ共和国)へ追いやります。これがキューバ革命。革命政権は、旧バティスタ政権関係者をおよそ550人処刑しました。カストロが首相に就任し、農地改革法を実施します。砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れていきます。またアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化農業の集団化も実施。こうして社会主義国の建設を推進していきます。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命していきました。

アメリカ合衆国は、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きをもくろみますが、革命政権が実施した徹底的な農地改革などにより、革命政権を敵視することにしました。それに対して、キューバ革命政権は、冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近。1960年にソ連と正式な外交関係を結びます。国内のアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収していきます。

これが当時のキューバの状況です。

キューバ危機、その後

フルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、11月中には貨物船でソ連に送り返しました。ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束し、その後1963年4月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。

アメリカ合衆国は偵察機を、ソ連のミサイル撤去声明の直後より、公然とキューバ国内や港湾上空に飛行させ、ミサイルが完全に撤去されたか否かを調査し、ソ連軍もこれらのアメリカ空軍の偵察機を撃墜することをソ連軍の現地司令官やキューバ軍に対し行わないように厳命しています。

カストロは協力を拒み、ケネディとフルシチョフの間で合意した国連監視下での兵器撤去の査察を妨げます。カストロは査察条件について合意する前に自らと協議しなかったことでソ連に対して憤っていました。フルシチョフはミコヤン第一副首相をハバナに派遣します。ミコヤンがハバナに行く前にカストロはアメリカ合衆国に対して領空侵犯の全面的停止、海上封鎖および禁輸措置の解除、体制転覆活動の停止、海賊行為の中止、グァンタナモ米軍基地の返還の5項目の要求しますが、アメリカ合衆国はこれを無視しました。

アメリカ合衆国はさらにソ連に対して軽爆撃機などの撤退も要求。11月20日にフルシチョフが軽爆撃機の撤去に同意。ケネディはその同意をもって海上封鎖の終了を宣言しました。アメリカ国防総省は軍の警戒態勢を解き、キューバ危機は幕を閉じます。

そしてキューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになります。これを冷戦体制下の1960年代末から1970年代末までのあいだ、アメリカ合衆国とソビエト連邦の政治対話が行われるようになった期間を指して「米ソデタント」と呼んでいます。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれました。

アメリカ合衆国の制裁措置によりキューバは経済的窮地に陥ります。当初は、友好国であるソ連や東ドイツなどの東側諸国との貿易により窮地を凌ぎます。しかし冷戦終結直後の1991年のソビエト連邦の崩壊後に、ソ連を継いだロシアは経済的困難に陥り、キューバに対する支援を減らし、キューバ経済は苦境に立たされていきました。

冷戦の終結で南アメリカの多くの国では、アメリカ合衆国の支援を受けていた反共軍事政権の多くが崩壊し、その多くが1990年代にキューバとの国交回復を成し遂げていきます。また、アメリカに対して強硬的な立場に出るようになったロシアのウラジーミル・プーチン政権が急速にキューバとの関係を回復し、再び経済的・軍事的にキューバを支援するようになっていきました。さらに2000年代に入りベネズエラやボリビアなどに成立した反米政権が「中南米における反米連合の盟主的存在」であるキューバとの事実上の同盟関係を持ち、さまざまな形でキューバに対する支援を行っています。さらに中華人民共和国がキューバへの支援と引き換えに軍港の使用を求めるなど、反米諸国がキューバに取り入る姿勢を見せていきました。

そんな状況下において、バラク・オバマ率いるアメリカ合衆国もこれまでのキューバに対する強硬的な姿勢を急転換させていきます。両国は水面下で行われていた接触を公式なものに引き上げ、次いでカストロとオバマが国際会議の場で挨拶を交わすなど関係の修正をアピールしました。さらに2015年に入りアメリカと国交を回復。相互の大使館が同年7月に開設されました。


危機の所以

もしフルシチョフが譲歩せず、アメリカ合衆国のカーチス・ルメイの主張通りにキューバのミサイル基地を空爆していた場合、残りの数十基の核ミサイルがアメリカ合衆国本土に向けて発射され、世界は第三次世界大戦に突入していた可能性が非常に高いと考えられているため。

まとめ

キューバに限らず、大国間の駆け引きのなかでもみくちゃにされていく国々が多い。そんななかキューバは、その独立性を形成し、生き残り続けてきました。そんなキューバの姿とチェ・ゲバラを重ねる見方もあるのかもです。

冷戦、社会主義、アメリカ合衆国の侵略についても知りたいですが、チェ・ゲバラがどうやって死んでいったのかも知りたい。次は、チェ・ゲバラについて紹介していきます。


参照

※1:キューバ危機





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