自分史的なクリッピング史料

もしトラがほぼ決定的になったというけど、秋以降、どんな秋波が押し寄せてくるのだろうか。直接選挙ってある意味ではフェアだけど、日本みたいにグレーな部分が少ないようで、調整が効かないというか、少なくとも4年間も我慢を強いられる国民も多いということに些か疑問も湧くことが多い。

2023年8月19日 日経 言葉のちから 若松英輔
力量と器〜吉本隆明 『詩とはなにか』

筆者は晩年の吉本先生と何度か会い、夕餉の時間に吉本先生宅で、揚げたてのコロッケを食したと冒頭で始まる。吉本先生の単著も持っているけど、よく理解できたのかと言われれば、やはり簡単ではないという感想しかない。むしろ対談本などの方が分かりやすくて面白いという私見。糸井重里との対談本などはその筆頭ではないだろうか。

吉本先生を紹介してくれたのは、娘で作家の吉本ばななさんで、吉本先生との話は対談などではなく、たわいもない会話だったと回顧されている。吉本ばななさんは単にファンが行くから程度の紹介で、吉本先生にはその方が的確であったと思うと所感を語り、肩書きや職業名などは不要だったとある。

相手が誰であろうと、その時に真剣に考えていることを語り、投げかけられた問いには全身で受け止めようとする態度が吉本先生。あたかも一人の代表者として見ていて語るというそんな雰囲気だったらしい。

吉本先生と二人だけのこともあったけど、別の方も同座することもあり、その別な方の背景なども気にかけることなく、ただただ対話に注意を深める態度だったと。吉本先生から問われるのは、どんな知識を有しているのかではなく、その人がどう生きているかなのだと筆者はおしゃっている。この部分は深い。

吉本先生はしばしば「力量」という言葉を使ったらしいけど、例えば親鸞に触れた時、「あの人のようにすごい力量があれば」と口にしたと。吉本先生から発せられる「力量」という月並みな言葉も全く異なる語感が響いてくると。語学力、語彙力、理解力、表現力といったものではなく「ちから」とひらがなで表記して特定の方向へ囚われることなきはたらきと感じると記されている。また量という一語も重量的というよりエネルギー的な感じらしい。

吉本先生がいう「力量」は技量と無関係ではないけれど、技量をどこまで極めてもその地平には至らないということが前提であるかのようだったと。技量とは訓練と学習によってある程度の達成は可能だけれど、力量が備わっているとは限らない。よく自分に言い聞かせたいところだ。要は他人と比べようもないその人独自のという語感だからと筆者はおっしゃっている。

吉本先生は独創的な詩人としても有名で、『詩とはなにか』と題する本で、詩を書く営みを巡って、" 現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すこと"  とおっしゃっている。即ち「力量」とは己を賭す力だと、かっこいい!

器量という似た言葉はどうか。これは人間が成熟していくとき「器」と呼びたくなるような何かを内に蔵さなくてはならないと。決して鉄製の頑丈なものではなく、乱暴に扱えば欠けてしまうような繊細なもので、皿のように平たいものでもなく、深みをもったものだろうと筆者は語られている。

他の人の目には見えない流した汗や涙が蓄積されたものが後に清水になって自分の中を浄化してくれる、そんなものだと。器が大きい、小さいとビジネスシーンでも他者を評価する時に耳にする言葉ではあるけれど、器というのは成熟過程でその瞬間に切り取られるだけでは人によってまちまちだろうし仮に小さいと揶揄されたとしても自信を失う必要はない。なぜなら熟成期間中だからと覚悟を決めれば良いし。最後の最後で、あの人は器が大きい人だったなぁと思われたらそれにこしたことはない程度で。親子関係でも同じような気がする。その人に内蔵されている器を見て欲しい。

戦国時代から現在まで、一個の茶碗を求める人たちがいて、動機や理由、目的も様々だけど、歴史が証明している通り、美しい茶碗との出会いを自身の成熟した心の顕現であると捉える人たちがいるということからも、美の経験と心の成熟には切っても切れない関係がありそうだと結ばれている。アート思考なども教養本もここ数年かなり刊行されているけど、確かにアートに関心を持てる、持つという心もちは悪くないと漸く思えてきた。長い熟成期間が自分には必要だったのだろうか。




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