自分史的なクリッピング史料

最近の話題となったトピックスに合わせて。今日は「宝塚」。
2008年2月19日 日経 文化 北陸にも「宝塚」があった。

金沢では、大正末期から戦前にかけて、モダンボーイ&ガールズが、粟ヶ崎遊園(大遊園地)に集い、少女歌劇団もあったそうだ。当時、全国有数の規模で、「北陸の宝塚」と謳われたと。

筆者(石川県立歴史博物館学芸専門員の本康宏史さん)はそのルーツや歴史を探索し始めた。そしてここは、阪急電鉄の創設者小林一三を尊敬する平澤嘉太郎がこれにならいたいと、格安の用地(これは砂丘)と建材の材木を準備し、さらに金沢市と粟ヶ崎を結ぶ浅野川電鉄を開通させ、金沢市内の人たちを送客したらしい。

この遊園地の最大の呼び物は、1932年にできた少女歌劇団。なんと、本場の宝塚からも人材をスカウトし、スターも生んだらしい。また、少女歌劇団ではないが、益田喜頓、由利徹らの浅草の人気者もこの粟ヶ崎の舞台出身らしい(今の人にはわからないだろうけど)。

しかし、ここは閉園に追い込まれた。その理由を筆者は2つあげている。一つは戦争という暗い影。当然、娯楽・レジャーとは相容れない。もう一つは平澤の才覚。小林一三が鉄道をコア・ボディに沿線開発を進めたのに対して、あくまで、私的満足に留まり、鉄道を付随物と扱ったが故に、地域の発展をなすことができず、集客はもっぱら金沢市内に頼ったこと。

それでも(記事掲載当時)再び注目されるようになったそうな。小中学校の総合学習でも取り入れられ、子供達が訪れることも多くなってきたという。
今思えば、大きなテーマでは地域開発、集客装置(この場合は鉄道)、そして、コンテンツのエンターテイメント性ということで整理していたと思う。

宝塚の昨今の話題では、演者の負荷を軽減すべく公演は10回から9回に減らされるということを昨日のニュースで知った。多くの集客を求め、その収益の獲得も事業者側目線でも分かるが、そこでのパフォーマーの質や観る人に与える安心感や余裕みたいなものもトータルで考えなくては継続性がある日臨界点を迎え、唐突に破綻するという事例は数多くある。

無論、集客を疎かにもできないし、堂々巡りの議論にもなりそうだ。文化の伝承というのは総じて難しい。コンテンツの魅力やその付加価値を平易に説明することが容易ではないからだ。

きっと当時はこの記事を読んで、時代を遡ることによる具体的な歴史的事実・事例に触れることに考えが及んでいたのだろうけど、今時は、演者のことにも視座を広げ、地域・エンタメの総合的な最大幸福値の話に、その物差しを当てていかなければならないトピックスかもしれない。

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