自分史的なクリッピング史料
一昨日の夕刊で、白いシャチが北海道・知床羅臼町で2頭泳いでいるところが発見されたとの記事。以前にも白いカワセミの話を書いたけど、突然変異や遺伝子変異など、その実態は分かっていないという。でもこうした珍しいモノを見る眼は、どちらかと言えば、それを神格化(少々大げさだけど)し、ドクターイエローでもそうだけど、何か見る者に幸福(幸せ)をもたらしてくれるのではないかという言葉が適切かどうか分からないけど、非常に庶民的な感情を豊かにしてくれるものだということではないのかと思う。旅行先で景勝地を訪れ、有名寺院などを拝観すると計画的ではあるけれど、日常を忘れさせ、束の間の幸福に浸らせてくれる。そんな感じを誰でも持ち併せている。
現在、乱読中の本の中に、『メガティブ・ケイパビリティ/答えの出ない事態に耐える力』がある。丁度半分くらい読んだところ。まだ理解が進んでいるとは言えない状況だけど、ここで述べられていることも所謂完全などないのだからと訴えているような気がする。読書ノートなるものは読了後に一応つけているけど、何せ乱読ばかり故に記憶に深く残る本というのは数がしれている。そこで、自分にとって有意義だと思う本は一番目立つ本棚に鎮座させて、時折本の背を見ながら、パッと手に取り中をパラパラとめくりながら何とか記憶を喚起させている。そんな読み方でいいのだろうか?と思いつつ。
2022年9月16日 朝日 「折々のことば」2500回へ 鷲田清一さん寄稿
朝日の天声人語もいいけど、一面の「折々のことば」もとても一日のスタートとしてなかなかいいなぁと思い、このクリッピングも続けている。これは小さなコラムなので、ひたすら切り抜いてはクリップで束ねてとめて、ヨックモックの缶の中にしまっている。時折瞬時の息抜きのために見返すには丁度いい。
2015年の連載から2500回を超えるというから、確かにどんな思いでこうしたコラムを書き続けているのか?という覚悟を知りたい。翌日分のゲラが最終確認のためにあがってくるそうで、読み間違えをしたのではないかと不安になると、原典に今一度還ると。夜8時には自分の手を離れるけど、本当にたまに修正を余儀なくされることもあるから、晩酌も落ち着かないらしい。
そうした迷いの時以外は、『「ことばの森」をうろついている』と語っている。何とも哲学者らしい物言いだ。仕事の書類に目を通している時にも、ついつい言葉探しをしてしまうらしい。それはことばの「貯金」が貯まるという感覚よりも心細い気持ちでいるとおっしゃっている。
一方で、一面に掲載されているので、戦争、感染症、災害、貧困といった悲惨な記事の横に並ぶことば選びが難しいとも。「ことばがまるでうぶ毛を失くしたかのように、むきだしで人にぶつかるようになった」と哲学的なコメントを付されている。それは露骨な差別的な発言や、捨てぜりふ、居直りのようなコメント、アリバイ逃れ、隠れ蓑として巧みなことばの操作等々。いやでも目にする、耳にすることばの数々に辟易しているのだろうか。
ところが、言葉を発することを現実の前に躊躇したり断念したりする人も増えているのではないかとも指摘されている。声をあげたところで何も変わらないのだからと。ことばの暴力と無力、ことばの横暴とことばの喪失。なんかこんな実態を見ていると、ことばを発する者として、やるせなくなるんだろうか。戦争などを目にしてことばを発する人もいれば、ことばを発することにうなだれて沈黙を決める人もいる。
でもことばの可能性が根こそぎにされた訳ではなく、時にはことばの無力を感じながらも、繊細なことばで伝えてきたという事実もあると。反対に、ことばの制圧に、高度なあてこすりやアクロバティックな手法で抵抗してきたのもことばだったと記している。自分たち一人ひとり考えてみても音を発するかどうかは別にして、頭の中で考えている時にも当然言語化をしている訳で、そうした自身の言葉に勇気づけられることもある。
『「折々のことば」は小さな枠のなかで、水を撒くようにことばのかけらを撒く』とまとめていらっしゃり、小さいが故に背景を十分に説明しきれない時、読者によっては、誤読というか相反する受け止め方がされるケースもあるだろうと。でも、「あれっ?」という感覚を喚起するところが大事なんだと。そしてそれが各自の思考の膨らみにつながっていけば?という思いが語られる。天声人語を読むのと同じくらい、この短い文章である「折々のことば」なんかを日々のヒントになにか探れないか?と朝のスタートを切るというのもいいかも知れないと思い、いつも真っ先に目を通している。ほんの数十秒で済んでしまうヒントの瞬間にビビッとくる時もあれば、そうでない時もある。それでいいんだ。
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